山折哲雄『『教行信証』を読む 親鸞の世界へ』岩波文庫、2010年
第2章 依拠すべき原点と念仏ーー「教」から「行」へーー
山折哲雄氏は『教行信証』という作品と言っている(p.v、vii、viii、2、9、32、36、40、43、44、46、52、59、66、67、70、71、76、83以下略)。
『高僧和讃』を親鸞の作品(p.24)というのは違和感を感じないが、作品を読み解くという方で読んでいる。たまに、『教行信証』というテキスト(p.30、53)とかテキスト(経典)(p.61)、主著(p.iv)、著作(p.v、65)という言い方も出てくる。
そもそも『教行信証』とは何なのか。経典でも経論でもない。Google でAI君に訊いたら、「浄土真宗の根本聖典」であり、「浄土真宗の教義」であると回答が返ってきた。信者である山折哲雄氏が「作品」と一般化して呼んでいる。教義を読み解くというより親鸞の心情を読み取ろうとする文学的行営為のようだ。
「親鸞好みの語彙あるいはキーワードをとりだしてみよう」(p.77)と言う。
「大悲の願海、光明の広海、一乗海
弘誓一乗海、願海、大宝海水、愚痴海」(同上)。
「ほとんど「大海」のイメージの噴出・氾濫である」(p.77)とまで言っている。
山折哲雄氏は文学作品を味わうようにして読んでおられるようだ。というのも、1年以上山内志朗氏の【夢ラテ】でトマス・アクィナスやドンス・スコトゥスをラテン語で読むセミナーに参加しているが、宗教家のテキストに対して概念の解釈はあるにしても、論理の一貫性を追う仕方で読むことはあっても、トマスの気持ちを窺うような読み方はしていない。
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