『日本語を翻訳するということ』(2018)

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牧野成一『日本語を翻訳するということ 失われるもの、残るもの』中公新書、2018年

日本語を感覚的に使い分けているのが「日本語人」とすると、著者はその感覚の違いを考える人のようです。

オノマトペをいっぱいとりあげて、違いの説明を読者に迫ります。オノマトペを使わないで日本語を書きなさいと習った身からすると、凄く新鮮な気になりました。「擬態語」「擬音語」にこそ「日本語」らしさがあるので、英訳では、音やリズムは落ちてしまいます。これは逆に英語の詩を日本語に翻訳しようとすると韻脚の問題にぶつかることからも分かります。

著者は「ので」と「から」に心理的な距離の差を感じています。これを少し拡張してみましょう。「なので」と「だから」を比較すると、私も「なので」に心理的な距離感の近さを感じます。

この本は英語への翻訳を例にとっていますが、英語に限らない他の言語への翻訳する場合でも、翻訳により失われるもの、残るものから日本語を日本語らしくしているものを考えようとしています。

第6章「ですます」が「である」に替わるとき

この章は「ですます」と「である」の混在の禁止の話かと思いましたが、もっと複雑なようです。

「〜です」「〜ます」体(敬体形)と「痛い」という「辞書形(いわゆる終始形)」(常体形)が文章の中でどのように使われるかを観察しています。常体形の説明が「だ調」だけ出していて、タイトルでは「である調」を言っているので、読者としては少し混乱します。著者は「ウチ形(常体形)」と「ソト形(敬体形)」が文章のなかで入れ替わる例を出して、何故入れ替わるのか読者に考えさせます。そして英語にどのように翻訳されるかを見ていきます。

相手を意識して距離を置いて話す場合に「ソト形(敬体形)」が使われるのは、分かります。「食べます」「食べました」「元気です」「元気でした」がその例です。それに対し、話す相手がウチの人の時に使うのが「ウチ形(常体形)」で、「食べる」「食べた」「元気だ」「元気だった」となります。「である」の例は一切出てきませんが、常体形の「だ」が使われてます。

「ソト形」は聞き手あるいは読み手を意識する場合に使われ、「ウチ形」は自分を意識する場合に使われます。英語の場合は判別が難しいですね。著者は相手を意識するとゆっくり喋り、独り言は早口にいうと言っています(笑)

「です・ます調」(敬体形)と「だ・である調」(常体形)は1つの文章の中で混在させてはいけないと習った身としては、石ノ森章太郎「私と先生」『朝日新聞』(1990年1月20日)という文章は敬体形と常体形の文が入れ替わる文章で違和感を感じました。インタビューをそのまま活字にした雰囲気があります。著者は、「書き手の記憶に刻み込まれた部分がウチ形」になるとし、ウチとソトとの切替を説明しています。「敬体形」と「常体形」が混在しても良い例外の話をしないで、混在している文章の入れ替わりを、意識の方向性だけで説明すると変な文章ができてしまうのではないでしょうか。それを変と感じるのも「日本語人」と「日本語」の関係性でしょう。

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