『狐の手套』(1936)

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LE PETIT PARISIENでオーナーが借りていた堀辰雄の『狐の手套』(野田書房、1936年)を読ませてもらう。紙のカバーが脆いため、回収されて箱になり、カバーはほとんど残っていないという珍品だそうです。こういう本を持つ人は愛書狂と言ってよい。

「レエモン ラジイゲ」と題したエッセイが冒頭にある。

「「何よりもまづ獨創的であれ。」しばしば發せられるこの忠告は、凡庸な詩人たちのところでのみ役に立つ。凡庸でない詩人たちはそれを必要としないのだ。そして多くの凡庸な詩人たちがダダの亞流になった。何よりも獨創的になろうとする努力、そこに今日の詩人たちの共通の弱點ーー奇矯にすぎることーーがあると言つてよい。ところでそれとは反對にラジイゲは我々に忠告するのだ。「平凡であるやうに努力せよ」と。

平凡であろうとする努力、これくらゐラジイゲの作品を貴重にしたものはなかつたのである」。

堀辰雄は「何よりもまづ獨創的であれ。」とするより「平凡であるやうに努力せよ」というまるで正反対のテーゼを皮肉たっぷりに出してくる。この背景にはラジイゲを借りたダダの模倣者への厳しい批判がある。しかし、平凡であろうとする努力といっても凡庸な詩人たちには分かるまい。使い古された言葉を洗い直すより、造語したほうが独創的に見えるのだから。ラジイゲの平凡さを堀辰雄は「普通の心理がこれくらゐ正確に、そして高尚に描かれたことは嘗てなかったのだ」と言っている。

「ラジイゲは死んだが、それと同時に、彼の詩人としての生涯は始まつたと言つてよい。何故なら彼は三册の著書を殘して行つたからだ」。

これは名言である。堀辰雄の簡潔な文章を読むと、説明のため言葉を費やしても伝わらない文章を読む気にはならない。

ちなみに、本のタイトルの『狐の手套』とはヂギタリスの異名だそうだ。学名Digitalisはラテン語のdigitus(指)が語源である。和名のキツネノテブクロは英語のFoxgloveの直訳である。digitusからdigitalとなるのは数を指で数えることから離散的な数を表すことになった。堀辰雄はヂギタリスの花の持つ毒をイメージしたのであろうか。

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