高取正男、橋本峰雄『宗教以前』ちくま学芸文庫、2010年
本書の本になったテキストは50年以上前に書かれたものであり、そこで取り上げられた習俗は明治の話だったりして、さらに100年以上前のものであったりする。その習俗が現代社会の中でどうなるべきかは分からないが、明らかに我々の行動に対する規制として働くものがあることは確かである。
触穢については、死穢・血穢・産穢が挙げられていた。「日本人は昔から死を穢れとして忌む感覚がつよく、太古から現在までそうした感覚と、それにもとづく各種の禁忌とを一貫してもち伝えたというのも、一応もっとものように思われる」(P34)としながらも、民間の習俗には「兵庫県の北部から鳥取県にかけての山間部などでは、以前は夫が死ねば妻が、妻が死ねば夫が、親が死ねばその子が一晩遺体と一つふとんで寝る風習があったというし、伊豆の八丈島では親が死んで葬式を出したあと、長男が親の寝ていたふとんに一晩寝る習わしもあった。死者と親しい間柄のものは、むしろ進んで死の穢れに服そうとする風習さえあったのである」(P34)と書いている。そう簡単に割り切れないものを感じる。
現在の風習を思い出すと、
六曜により友引には通夜や告別式を避けようとする。
新型コロナに対して疫病退散のお札を求める。
通夜や葬式から帰ると塩でお清めする。
これらの習俗は、疫病の原因が不明とされた時代ならいざ知らず、科学的には何の関連もないことを我々は頭で理解しているが、習俗ゆえに従ったり、論じたりする。中にはアマビエが流行るとそれを商売にしたりする。
新型コロナにより家族葬が増えれば、友引に葬儀を行わないという風習は廃れるかもしれない。
祇園祭の山鉾巡航がなく粽を買い求めなかった私は疫病に罹患するかもしれないし、しないかもしれない。
ご不浄と言ったトイレを利用しても石鹸で手を洗わない人達にはお清めすることは意味をなさないかもしれない。
確率論の世界観から見ると、習俗は科学的に意味をなさないことが多い。宗教的儀式も同様である。だが、人々はそれをやめようとはしないし、担い手の精神が断絶することによってしか廃れないだろう。
習俗が我々の心の平安に寄与することは分析されている。心とは裏腹に人は行動することも確かである。不可知の中の社会ゲームをする人間は同質性が高いほど同じ行動を選ぶのは避けられない。
そんなことを考えているうちに時間がなくなった。ブログに書くこともなくなった。
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