『二宮翁夜話』(2012)はいい話だ

Goinkyodo通信 読書時間
福住正兄、児玉幸多訳『二宮翁夜話』中公クラシックス、2012年、Kindle版
小林惟司氏の「尊徳をどう読み解くか」を読むだけならサンプルでよい。これだけで十分読み応えがあった。しかし、『二宮翁夜話』の一編だけでは好奇心が満足してくれない。
二宮尊徳は二宮金治郎として、薪を背負『大学』を読む子供の姿を思い浮かべる。戦前にシンボルとして政治利用されたが、今では学校に銅像を見かけることが稀になってしまった。
二宮尊徳は弟子を育てた。二宮尊徳の話は弟子から伝わる。本書は二宮尊徳の弟子である福住正兄(ふくずみ まさえ」が二宮尊徳に随従していた時に聞いた教訓をまとめた形をとっている。録音に基づいてテキストを起こすのとは異なり、筆記者というフィルターを介しているから、筆記者の心のはたらきも大いに関係すると考えられる。
二宮尊徳は膨大な『仕法』という農村復興計画書はあるが、その思想を知るためには弟子が書いた本によるしかない。書籍を尊ばないという思想の持主である(一話)。
辻本雅史氏の『江戸の学びと思想家たち』(岩波新書、2021年)では、儒者として、山崎闇斎、伊藤仁斎、荻生徂徠、そして貝原益軒が取り上げられた後に、石田梅岩と石門心学が取り上げられていた。庶民を相手にする石門心学の話法を読んだ上で、二宮尊徳の話を読むと、二宮尊徳の話にリアリティを感じる。『論語』や『孟子』は遥か古代の話で環境が違いすぎる。もちろん江戸後期も今と比べると不自由な社会であるが、古代中国と比べれば遥かに理解しやすい。
二宮尊徳の話は、例えば以下ような調子である。
「儒学者がいて、こう言う。「『孟子』は易しく『中庸』は難しい」と。翁はこう言われた。
 私は文字上のことは知らないが、実際の仕事のうえに移して考えれば、『孟子』は難しく『中庸』は易しい。なぜなら、『孟子』の時は道が行なわれず、異端の説が盛んであったので、その弁明を勤めて道を開いただけである。それゆえ、仁義を説きながら仁義に遠い。あなたがたが『孟子』を易しいとして『孟子』を好むのは、自分の心にあうからである。あなたがたが学問をする心は、仁義を行なうために学ぶのでなく、道を踏むために修行したのでもなく、ただ書物上の議論に勝ちさえすれば、それで学問の道は十分だとしている。議論が達者で、人を言い負かせば、それで儒者の勤めは立つと思っている。聖人の道はそういうものではあるまい。聖人の道は仁を勤めるにある。五倫・五常を行なうにある。どうして弁舌をもって人に勝つことを道としようか。人を言い負かすことを勤めとしようか、『孟子』はこれなのだ。こういうのを聖人の道だとすれば、はなはだ難道である。容易になしがたい。それで、私は『孟子』は難しいというのだ。」(一一 中庸は易し孟子は難し)。
庶民レベルでわかりやすく説いている。儒学者は必ずしも道の実践者ではない。
こんな話を炉端で聞いていたら充分刺激されたに違いない。

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