谷沢永一『論より証拠』潮出版社、1985年第2刷
以前読んだ時から3年半経って、振り返ることにする。
虚学のための五箇条
第一条 歴史物語に着目する。
第二条 人間性を知ること。
第三条 推理小説を読むこと。
第四条 日本人の感受性を知ること。
第五条 自分のひいきの作家、ライターを持つこと。
『読書人の壺中』(1978)には「雑読学序説」があつたが、『論より証拠』(1985)では「虚学」の勧めが福沢諭吉の「実学」に対比されて論じられていた。「実学」とは別の学問、教養、栄養であるという。虚学の裏付けを得るための方法を五箇条にまとめてあるのだが、もううろ覚えになっている。
第一条 歴史物語に着目する
「史眼をもった人が書いたひとつの歴史物語を重要視することによって、歴史学がとうていつくりえなかった史眼を養うこと」(p.21)。
例として、塩野七生の『海の都の物語』(正続2巻 中央公論社)や『ダルタニアン物語』(全11巻 講談社文庫)、陳舜臣の『阿片戦争』(上中下 講談社文庫)があげられていた。
最近読んだフランチェスカ・トリヴェッラート、玉木俊明訳『世界を作った貿易商人 地中海経済と交易デイアスポラ』(ちくま学芸文庫、2022年)などの歴史学も面白いと感じている。塩野七生は『ローマ人の物語』を全て処分してしまったので、読む気にはならない。フランスを知るためには17世紀のフランスを知るべきであることは同意してもアレキサンドル・デュマ・ペールを読むのも今更のような気がする。陳舜臣の『阿片戦争』は図書館で借りてきたことがある。原因はこの本にあったのか。
第二条 人間性を知ること。
「戦後の読書界、知識人界、あるいはオピニオンリーダーたちは、全体の社会構成を社会主義化することによって、人間の持つ悩みが一瞬のうちに解消するという幻想、イデオロギーをもってしまった。そしてそのイデオロギーの下に、人間性が持つ暗いどろどろした、蝮が穴の中でからみ合っているような面を無視しつづけてきた」(p.22)。
「人間性とはなんであるかを最も明晰に描いた本としては、西にはラ・ロシュフコオの『箴言と省察』(岩波文庫)があり、東には『論語』がある(p.23)。『論語』は宮崎市定『論語の新研究』(岩波書店)をあげている。
これらは人間性の根幹である。さらに「人間が群れをなし、作りあげた社会構造についての勉強が必要になる」(同上)。
例として、ザミャーチンの『われら』(光文社古典新訳文庫、集英社文庫)ジョージ・オーウェルの『動物農場』(ハヤカワepi文庫)、カレル・チャペックの『山椒魚戦争』(岩波文庫)をあげている。SFは思考実験としてこのような社会を描き出して警鐘を鳴らしていた。
人間性を知ることはかなり辛いことである。
第三条 推理小説を読むこと。
丸谷才一の『深夜の散歩』(講談社)を引用して、「「現実の市民社会と理想の市民社会とを識別するだけの、知的な能力がある」場合のみ、探偵小説のおもしろさがある、と言う。したがって、探偵小説の読者は現実と理想の乖離をつねに暗黙のうちに体得できる。そうなれば丸谷才一がいみじくも言ったように、理想と現実の両方に足をかけながら、しかも夜、眠るのを忘れるほど楽しませてくれるような推理小説を読むことはたいへんな頭の体操になるのだ」(p.25)。
最近はシャーロック・ホームズの冒険をテレビで見ることはあっても、推理小説を読むことがなくなっていた。余裕のない暮らしぶりである。
第四条 日本人の感受性を知ること。
歳時記が最適であるという。そういえば、私が歳時記を買ったのはそういう理由があったのか。
第五条 自分のひいきの作家、ライターを持つこと。
「われわれは自分のささやかな家に一人のひいき作家の書物の一群を蓄えることによって、私はこれをひいきにしているのだという余裕、あるいはゆるやかな気持ちの楽しみをもつことができるはずである。虚学の醍醐味はここに尽きるのではないか」(p.28)。
ひいきの作家をもっているから、本が溜まる一方であった。一人で良いのであって、ひいきが多過ぎた。だから、杏佳ちゃんに花見小路で裏切者と怒られたのだった。各分野毎に一人にしておく必要がある。
記憶に留めるのをやめて記録に留めてみた訳であるが、こんなことをしていたら本を読む時間がなくなってしまう。やはり、漫然と読んで終わるのが私には相応しいようだ。
「実学」と対照される「虚学」については、以前のブログを参照する。
『論より証拠』(1985)その2
『論より証拠』(1985)その2
谷沢永一『論より証拠』潮出版社、1985年第2刷谷沢永一が「"虚学"の醍醐味」で福澤諭吉の「実学」に対する対照語として「虚学」を書いていた。「実学」は福澤諭吉が『學問のすゝめ』(1872年)の初編の有名な「天は人の上に人を造らず人の下に人を...
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