『頼山陽とその時代 上』その3

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中村真一郎『頼山陽とその時代 上』ちくま学芸文庫、2017年

第1部第4章 遊蕩と禁欲

京都に出ても頼山陽の放蕩は止まなかった。中村真一郎は性欲と神経症の関係性に触れたが、神経症はよくなった。妾を置くことで東方(祇園)へ通う気がおこらなくなったと書いている。頼山陽の言葉は信用がならないのである。ブラタモリを4月15日に見ていて、祇園の発展には眼を見張るものがあった。頼山陽も通ったのだろうか。

禁欲については、父春水が亡くなり、3年の喪に服することになった。禁欲的だったのはどこまでか分からない。頼山陽のスタイルは古の儒者と違い喪中であっても外出や遊びをすることがあったようで、批判がある。頼山陽は何をやっても批判される男だ。しかし、とにかく3年の喪に服したのだった。その後、母と旅行したり、母を島原の遊廓へ案内したりして孝行を尽くしている。

学者としての頼山陽は放蕩児の噂の影響もあって父春水のように昌平黌の教壇に立つことはなかった。この点に関して中村真一郎は興味深いことを書いている。

「放蕩は彼を文人、つまり感覚の人である詩文家、たらしめた。それに次いで彼の内部から現われた克己は、今度は彼をもう一度儒者の道へ 引き戻すように働きはじめた」(上P104)。

そして、中村真一郎は「遊蕩と文人、禁欲と学者、この二つの矛盾する組合せが、晩年の山陽のなかで戦っていた。そして克己による内面的自由の確保の道が、遂に実現への一歩を踏み出した時、彼の寿命が尽きた。その結果、彼は「遊蕩児山陽」の面影を後世に残すことになってしまった」(上P104)と書いている。

しかし、「人間の一生を不安定な可能性の束」とみる中村真一郎は次の言葉を付け加えることを忘れていない。

「藉(か)すに僅か数年の歳月を以てすれば、私たちが受け取ったのは、案外、松崎慊堂と佐藤一斎との中間に立つ、厳格なアカデミアン、昌平黌教官山陽の姿であったかも知れない」(上P104)。

次は女弟子たちである。気になる章のタイトルである。

『頼山陽とその時代 上』その4

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