吉田健一『東京の昔』中公文庫、1976年
解説で入江隆則氏が「さて、「東京の昔」という作品は、冒頭の第一行目に書かれている通り、主人公が「本郷信楽町に住んでいた頃の話」で、内容から考えるとたぶん昭和の初期から昭和十年代の前半ぐらいの時期を思い浮かべればよいのだろうと思う。」と書いてあった。
これで何かを思い浮かべることができる人は、当時はともかく今では少ないだろうと思う。時代考証するにしても幅が広すぎる。ここでも「本郷信楽町」について言及がされていない。
文庫本の表紙を見るとご丁寧に赤で本郷信楽町とか戦前とか書いてある。吉田健一が厳密に書いているわけではないと思うので時代考証する気はしない。表紙のように「これは本郷信楽町に住んでゐた頃の話である。」と旧仮名遣いであって欲しいのだが、文庫ゆえに仕方のないことと思う。私が単行本にこだわるのは仮名遣い一つとっても印象が異なるからである。なぜか漢字は旧字体が残っている。
好きなパラグラフをメモして終えることにしょう。
「従って本郷の町を歩いていてそれが自分の故郷でもないのに自分が住んでいる町にいる感じがした。それは人間は何が目的で生きているのかと言った愚劣な考えを斥けるに足りて夕闇が早く町を包んでその中に付く明りが懐しい色をしているからそれが見える所にいるのだった。又そのことが確かだったから季節の変化に応じて浴衣が単衣に変り、単衣がもっと厚い地の単衣になってそのうちに冬が来た。もし或る場所がその場所であることで他のどういう所も思わせるならば一つの季節は後の三つでもあって秋で日差しが和いだことに冬に縁側で日向ぼっこをする聯想も誘い出されて又それだけ秋が秋に感じられる。そしてそれは電車通りを走る電車の音を聞いていてそれをいつまでも聞いていられる気になるのを妨げなかった。これは本郷の電車通りに立っている或る一瞬間があってそれがいつまでもあることになったことだろうか。そういう現在の連続のうちに我々は一生を終る」(P177)。
文庫本の解説の点でいえば、島内裕子氏の解説を最近読んだばかりであることを思い出した。
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