竹村牧男『唯識・華厳・空海、西田 東洋哲学の精華を読み解く』青土社、2021年
第一 唯識の哲学(一)事的世界観としての唯識思想
唯識についてだいぶ記憶があやふやになっていた。
世界は諸行無常である。
世界はもとより刹那滅である。
「その根底には、無始の過去から無終の未来まで、刹那刹那、生滅しつつ一瞬の隙間もなく相続されているという阿頼耶識がある」(38ページ)。
この辺りに古代インドの生死輪廻の思想が被っているのだろう。
眼識・耳識・鼻識・舌識・身識の前五識に意識を加えて六識という。それに末那識と阿頼耶識を設定して八識とするのが唯識説である。
「八識あるいは根底の阿頼耶識も、刹那滅のものであるゆえに、常住の本体を持つものではない。それ自身、無自身、無自性、空なるものであり、ゆえに常住・不変・主催者の我ではありえない。しながって無我と齟齬はない。もちろん、八識のすべてが刹那滅なので、世界自体も常住の本体を持たず、無自性・空である、無我には、人我の無我(人無我)と諸法の無我(法無我)とがありうるが、こうして大乗唯識では、人無我のみではなく法無我も説明しているのであり、一切法空の立場を明らかにしている」(同上)。
「唯識説の場合、行為とは結局、七転識(前五識・意識・末那識)の活動である。要は見たり聞いたり考えたりである。その活動は、その刹那に直ちに阿頼耶識にその情報を植え付ける。これを熏習(くんじゅう)するという」(39ページ)。
この情報とはどのようなものなのか、情報システムを扱っているものとしては気になる。
「阿頼耶識に熏習された気分を習気(じっけ)といい、それはまた未来に同じ経験を呼び起こす。それゆえこの習気をまた、種子という、種子は縁に応じて七転識の活動を生み出し、その活動は同じ刹那に直ちに阿頼耶識に種子を熏習する。七転識が現実に活動したところを現行(げんぎょう)という。ここに種子生現行(しゅうじしょうげんぎょう)・現行熏種子(げんぎょうくんしゅうじ)という事態が一刹那においてなされることになる。このことを「三法展転(ちんでん)、因果同時」という。そこで新たに熏習された種子は、現行したときに介在する諸縁によって、元の種子と異なる可能性はある、阿頼耶識はその一刹那に有している種子を、次の刹那の阿頼耶識にそっくり送り込む、あくまでも刹那滅の相続の中で、そのことが行われるというのである。ここを種子生種子という」(同上)。
そうだそうだと思って写経してしまった。
「前五識や意識等によって熏習された種子は、同時に善性もしくは悪性を帯びているが、その情報もまた阿頼耶識に蓄積されていき、それが来世にどこに生まれるかを決定づけていくことになる。ゆえに過去の行為自体は消滅しても、行為の善・悪に関する情報は維持されていくのであり、そのもとで生死輪廻が続いていくのである。この善・悪の情報を業種子(ごっしゅうじ)という」(同上)。
善・悪は属性のようだが、誰が判断するのか。
業種子はどのように相続されるのか。
「七転識の相分・見分の熏習する種子を名言種子(みょうごんしゅうじ)」(同上)という。
相分・見分は先に説明があったので戻る。
「唯識思想で説く識とは、(省略)、一つの識の中に、対象面と主観面とを有したものをいう。術語でいえば、一つの識にはその内部に、相分と見分とが存在しているのである」(29ページ)。
「心は心の中に映像を浮かべてそれを見ているようなものということになる。けっして外の物を写しとる鏡のようなものではない。心は、心の中に対象面を有して、しかもそれを見ているものなのであり、そこに対象面と主観面の双方が存在しているものなのである」(同上)。
これ以上は説明していないので、先を進める。
「井筒俊彦はこの名言種子の語から、それに「アラヤ識の暗い深部に流動する「意味」エネルギー」といったことを読み込んでいるが(『意味の深みへ 東洋哲学の水位』、岩波書店、一九八五、あとがき参照)、それは魅力的ではあるものの、自己の意味分節理論を投影して読んでいるのみである」(40ページ)。
さらっと書かれているが、『意味の深み』を読み返さないと、竹村牧男氏の真意が掴み難い。

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