安藤礼二『空海』(『群像』2021年01月号)を読む

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  • 安藤礼二『空海』(『群像』202101月号)

序章「即身」

1

「なぜいま空海なのか。」と安藤礼二氏は問うことから始めた。そして、「空海とは、次に掲げる二つの「頌」を残した人物ということに尽きる」という。

五大皆有響 十界具言語

六塵悉文字 法身是実相

六大無碍常瑜伽 四種曼荼各不離

三密加持速疾顕 重重帝網名即身 無碍

「前者は『声字実相義』、後者は『即身成仏義』の核心を、いずれも、ただそれだけで語りきってしまった「頌」(「詩」)である」(p.137)。

「空海の「詩」は、膨大な仏典を読み解いた上で可能になったものだ。しかしながら、空海が参照したとされるどの仏典にも直接そのままの形で見出すことはできない。つ まり、空海においては創造的なテクストの読み解き、すなわち創造的なテクストの解釈がそのまま創造的なテクストの創作につながっているのである。 読むことは書くことで あり、書くことは読むことである。 解釈は創作であり、創作は解釈である。空海が実践したのはそのようなことだった。創作に直結する解釈とは「批評」そのもののことであ る。だからこそ、自身の営為を「批評」として自己規定しているこの私が、蛮勇を恐れず、いまここで空海を論じよ うとしているのである」(pp.137-138)。

安藤礼二氏は「批評家」であったのか。「文芸評論家」と世間では認識されている。若松英輔氏のように自ら「批評家」と主張しないと「批評家」とは認められないのだろう。

「今なぜ空海なのか」という問いに安藤礼二氏は答えた。

「空海のなかに否定性は存在しない」(p.143)。

「空海は、森羅万象ありとあらゆるものの「生」を決して排除しない。 森羅万象ありとあらゆるものが一つに入り混じる世界。 そうした世界にまず信を置くことから真の宗教がはじまり、同時に真の哲学と真の表現がはじまる。そう励ましてくれる。だからこそ空海なのだ。だからこそ、いまあらためて空海を読み直さなければならないのである」(p.144)。

人間中心主義でやってきた世界は繁栄のなかに滅びが見え始めている。地球温暖化だけが問題ではあるまい。人間中心的な世界認識を改めなけれならない。世界は本来無分節的なものである。分節的思考は無分節なものに差異を見出す。差異はコトバとなって現れ、意味をもつ。意味の場が世界であるならば、分節的思考が世界を作っていることになる。コトバが世界を作っている。コトバを発するものは誰か。意識は分節的思考によりコトバを発し続けている。コトバになるということはコトバにならないことが分節されたことである。世界を創り出す真のコトバとは何か。安藤礼二氏が読む空海を通じて考えていこうと思う。

2

空海が依拠した『大日経』と『金剛頂経』についての「詳細については次章以降で触れる」(p.144)としている。

ここでは、『大日経』と『金剛頂経』どう異なっているかには言及していないが、「法身」「真言」「曼荼羅」がどういうものかの概要が語られるのである。しかし、いきなり井筒俊彦のいう「誤読」(注)を意識した記述が現れる。

「『大日経』と『金剛頂経』 の交点、 胎蔵界曼荼羅と金剛界曼荼羅の交点に、空海は自身の信仰の体系にして思想の体系を築いたのだ。そのためには、異なったもの同士を一つにむすび合わせる解釈学、ほとんど意図的な誤読(誤訳)とさえ判断されるような、創造的な解釈学が必要であった」(p.145)。

胎蔵界曼荼羅と金剛界曼荼羅を見れば『大日経』と『金剛頂経』の異なることは明らかである。空海は異なる経典を統合してみせる。

序章は次の言葉で締め括られる。

「古代から中世へと転換していく激動の時代に極東の列島に生まれ、インドの言葉と中国の言葉、つまりはその二つの言葉が体現する世界と触れ合うことによって、この後、この列島に開花する信仰の種子にして表現の種子をもたらしてくれた宗教者にして哲学者である空海。その空海は、 生涯を通して宇宙の根源にして意識の根源、さらには身体の根源に位置づけられる「法身」を求め続けた。「法身」は空海の探究が始まる場所であり、終わる場所である。その地点からあらためて、空海をめぐる私自身の旅をスタートさせてみたい」(p.155)。

注)井筒俊彦「意味分節理論と空海ーー真言密教の言語哲学的可能性を探るーー」『意味の深みへ 東洋哲学の水位』岩波文庫、2019年、pp.264-265

「自ら創造的に思索をしようとする思想家があって、この人たちも、研究者とは全然違う目的のために、過去の偉大な哲学者たちの著作を読む。(省略)。厳密な文献学的方法による古典研究とは違って、こういう人達の古典の読み方は、あるいは多分に恣意的、独断的であるかもしれない。結局は一種の誤読にすぎないでもあろう。だが、このような「誤読」のプロセスを経ることによってこそ、過去の思想家たちは現在に生き返り、彼らの思想は撥剌たる今の思想として、新しい生を生きはじめるのだ」。

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