『京の社』(2022)その2

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岡田精司『京の社 神と仏の千三百年』ちくま学芸文庫、2022年
神社の歴史変遷を辿りながら近代以前の世界を理解するには、参詣曼荼羅など絵画史料がいる。文化遺産オンラインを使ってみて、スマホでは小さ過ぎるし、視認できないものはあつても役に立たない。残すべき本も見えてきたような気がした。
第四章 石清水八幡宮は豊後国宇佐八幡宮の話から始まる。宇佐八幡宮はその起源について不明であるばかりか「八幡」という名号にも納得できる話がないという。むしろ、神仏習合が進んでいたという話が興味深い。石清水八幡宮護国寺は王朝国家の時代にふさわしく、藤原良房の強い意向により貞観2年(860)に清和天皇の守護神として創建されたという。神仏習合を表す名称である。明治の廃仏毀釈は、仏教色を排除してしまった。参詣してみたが、往時の賑わい跡を見出すことは出来なかった。
第五章 北野天満宮はよく行っていたが、梅花祭は明治初年まで「菜の花御供」であったという。「大阪天満宮などでは、今でも月遅れの三月に「菜の花御供」がおこなわれてい」(p.150)るという。十二社という怨霊神を祭った祠は記憶がない。
第六章 祇園社感神院は牛頭天王、頗梨采女(はりさいにょ)、八王子の三座であったのが、明治の廃仏毀釈で、素戔嗚尊、櫛稲田姫、八柱御子神となった。しかし、牛頭天王は素戔嗚尊と同一視されていたし、牛頭天王の妻の頗梨采女は、素戔嗚尊の妻の櫛稲田姫と同一視されていた。これは吉田神道による影響があるらしい。江戸時代の都林泉名勝図会の神輿の中央は素戔嗚尊で大政所、西は稲田姫で少将井、東は龍王女で今御前とある。

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