『京の社』(2022)その3

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岡田精司『京の社 神と仏の千三百年』ちくま学芸文庫、2022年
第七章 吉田神社は節分に行った。夜、タクシーで川端通を行けるところまで行ったことがある。左右の出店のために表参道が狭くなって参詣者でごった返していた。昼に南参道から行ったときは、松井酒造の露店で神蔵の升酒を呑んだ。大元宮はじっくり見たけれど、吉田神社の本殿の前に焚き上げの古札が積み上がっているくらいしか記憶がない。菓祖神社で菓子と豆茶の接待を受けたのが懐かしい。本書では吉田神社の「宗源宣旨」や「神道裁許状」による全国の社家の支配と明治維新によるその終焉が興味深かった。
第八章 豊国神社は何度か宝物館を見に行った。豊国神社の唐門が金地院の東照宮から移されたものとは知らなかった。比叡山東照宮はタクシーの乗務員の案内先に入っていなかったので素通りしてしまった。延暦寺訪問からの繋がりなので滋賀院門跡くらいしか見ていない。
第九章 白峰神宮、水無瀬神宮、霊山護国神社は流刑になった天皇や維新の志士たちが祀られている。それもあってアサヒビール大山崎山荘美術館に行った時にわざわざ反対側にある水無瀬神宮へは向かわなかったし、他は一度訪れだけである。神さびてないところは何度も行こうという気にならない。
第十章 平安神宮、護王神社及び梨の木神社は明治の創建である。何故、和気清麿や三条実万(さねつむ)や三条実美(さねとみ)が神となったのか疑問を呈している。
神社の歴史をその変遷から述べた本書はわたしの好みに合った。「吉田神道と明治維新の神仏分離令によって、祭神はすべて記紀などの古典に見える神々だけに統一されてしまったのです。京都市民に馴染みの深い愛宕山も、馬に乗った将軍地蔵からイザナミ女神に変わってしまいました」(p.266)。国家神道化することで、神社を画一化してしまったことは残念なことだ。神仏習合の宮寺(みやでら)が残っていればなんともエキゾチックに違いない。伏見稲荷大社が人気なのもそのエキゾチックな朱の千本鳥居や「お塚」だろう。神社の祭神にその土地と所縁のない中央の神が祀られても、上からの押し付けでしかないし、何より有り難くない。

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