安藤礼二『空海』(『群像』2021年04月号)

読書時間

安藤礼二『空海』(『群像』202104月号)

1章「仮名」

1 仮名

ここでは、『三教論』が扱われる。空海の『三教論』は『三教指帰(さんごうしいき)』と『聾瞽指帰(ろうこしいき)』が知られる。以前に読んだのは『聾瞽指帰』だったのかも知れないが、すでに忘れているし、その後の書籍で補った情報に置き換わっている。

空海が得度して空海と名乗るまで、幼名が真魚(まお)としか知られていない(注1)。私度僧として山林抖擻していた時分に名乗っていた名前はわからない。我々は『三教指帰』の序により「仮名乞児(かめいこつじ)」を若き空海の姿と想像している。

『三教論』が二つあるのは、入唐後に『聾瞽指帰』を書き直したものが『三教指帰』であるとされている。細かく見れば、序文や十韻の詩も異なるし、鼈毛(べつもう)先生も、『三教指帰』では亀毛先生と呼ばれている。

『三教指帰』の序によって虚空蔵求聞持の法が契機になったことが語られている。それは正史である『続日本後記』に承和二年(八三五)三月丙寅(二一日)の大僧都伝記灯大法師位空海の死去を伝える記事の次の庚午(二五日)の淳和太上天皇の弔書に付けられた空海法師の伝記の中に記載されていた(注2)。

空海が完成させた真言密教の体系は、『大日経』と『金剛頂経』からなる(その詳細については次回に論じる)(p.316)。

2 霊異

空海が、この『三教指帰』の「序」で描き出している「文」の生成論は、後年、『文鏡秘府論』で述べているような「文」の生成論よ近しい(その詳細については「真言」の章で行う)」(p.328)。

安藤礼二氏は『聾瞽指帰』と『三教指帰』に空海の二つの可能性を見る。「『聾瞽指帰』を書き上げた時点で空海が選んだ仏教とは、国家の仏教ではなかった。国家に抗する反国家の仏教であった」(pp.321-322)。制度の外にいたのである。後年、空海と名乗り国家仏教の担い手になる空海とは別の可能性があった。『三教指帰』よりも『聾瞽指帰』の解説に力が入っているようだ。

『聾瞽指帰』の「序」は誰に向かって書かれたのだろうか。

「あらゆる制度に抗い、あらゆる制度を笑い、あらゆる制度を破壊し尽くすもう一人の空海がここにいる。このもう一人の空海は、一体何処で、誰に向かって、このような「序」を書いたのか。その手がかりもまた『聾瞽指帰』の本文のなかで、仮名乞児として生きる空海その人の手によって、割注のかたちで記されていた。(省略)。制度に抗い、国家から逃亡した放浪するマイノリティたちであった。そういった意味で、『聾瞽指帰』とは、極東の列島ではじめてまとめられた「マイナー文学」の傑作であった」(p.332)。

安藤礼二氏は阿部龍一氏「『聾瞽指帰』の再評価と山林の言説」」の助けを借りて、『聾瞽指帰』の現代語訳をしている。

「『聾瞽指帰』は四国、伊予の石鎚山や大和、吉野の金峯山を修行の場とする私度僧たち、優婆塞、優婆夷たちに向けて書かれたものだった(阿部はそう推定している)。私度僧たちが集う聖なる山は、あらゆる制度の外に位置していた。その外の地で、仮名乞児としての空海をそのなかに含む私度僧たち、優婆塞、優婆夷たちは、一体どのような光景を目にしていたのか」(p.334)。

そこで『日本霊異記』の話が出てきた(正確には日本国現報善悪霊異記』)。手許の原田敏明・高橋貢訳『日本霊異記』(平凡社ライブラリー、2000年)の参照箇所を読みながら、この書物に語られた「時」が明示されているものがあることに気がついた。怪異譚ルポルタージュの体裁をとっているのか。

安藤礼二氏はこの書物を要約する。

「私度僧である優婆塞や優婆夷を「聖(ひじり)」とし、その「聖」が孕みもっていた信仰と表現の可能性を描き尽くそうとした『日本霊異記』は全三巻からなる」(同上)。

聖徳太子と乞食のエピソードは『日本書紀』にあるので知っていたが、「小角」の話が正史にあるのは忘れていた。

葛城山の役行者「小角」の歴史としての生涯(『続日本紀』巻第一文武天皇三年(六九九)五月二四日の条)を「物語」として語り直したものが『日本霊異記』上巻第二八、「孔雀王の咒法を修持して異しき験力を得、以って現に仙と作りて天を飛びし縁」であるという(p.340)。

下巻、第一九「産み生せる肉団(シシムラ)の作れる女子の善を修し人を化せし縁」の異形の少女の話や、中巻、第四一として収録された、少女と大蛇が交わり異形の子供をもうけた物語などが紹介される。

後者について、安藤礼二氏は美しい言葉で翻訳する。

「愛という欲望のかたちは一つではないのだ。愛もまた永遠回帰し、その反復の度ごとにさまざまな愛の結晶を残しては「空」へと消え去ってゆく」(p.364)。

(注1)安藤礼二氏は武内孝善氏の研究によっているので、「空海は宝亀五年(七七四)に生まれ、延暦二二年(八〇四)の三〇歳で得度、翌年の延暦二三年(八〇五)に入唐、承和二年の六二歳で入滅となる(本連載でも、以降、武内が整理してくれたこのクロノロジーを採用する)」(309ページ)としている。

(注2)正史の記事が引用されると手許の本で確認することにしている。森田悌『続日本後記 上』(講談社学術文庫、2010年)は現代語訳と漢文が掲載されているので、まことに使いやすい。

コメント

タイトルとURLをコピーしました