『法然の手紙を読む』(2025)を読む(その3)

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阿満利麿『法然の手紙を読む』ちくま学芸文庫、2025年

第二章で残された大胡太郎実秀宛の手紙を読もう。

「三心(さんじん)」の解説になる。「「三心」とは、『観無量寿経』に説かれている、極楽浄土にいたるための十六の観察方法のかなの代十四番目に出てくる」(p.165)という。至誠心、深心、回向発願心である。

阿満利麿氏は「なぜ「三心」が問題になるのか」(同上)という。この人は一言いたい人である。

「それは仏教では、なんらかの「行」を実践するとき、その「行」をコントロールする「心構え」が必要だと考えているからなのである」(同上)。

ここでも「雑行」が出てくる。

「正行」と「雑行」という言い方は、なぜか、法然は善導大師の解釈を根拠にする。阿弥陀仏の化身ということで、論理を超えている。

「さらに、正行」のなかに「専修」と「雑修」の別を見い出してゆく。その結果、称名こそが「専修」の「行」であり、称名行こそが、すべての人に、例外なく開かれていることが判明する」(p.193)。

理詰めで選択を重ねていくのは迫力がある。阿満利麿氏はラディカルということを言っていた。既存の宗教からすれば、否定と取られなねない危険がある。法然は弾圧を想定していた。大胡太郎実秀宛の手紙に「御披露あるまじく候。御覧じ心得させたまひてのちは、とくと引き破せたまふべく候」(p.199)とPS宜しく書いている。

阿満利麿氏は『選択本願念仏集』を訳していたので、あとでkindle unlimitedで見てみるとことにする。

「一一九八年に書かれた『選択本願念仏集』にも、末尾には「壁底に埋めて窓前に遺すこと莫れ」と記されている。理由は、本願念仏に反対する人に仏教批判の罪を犯させないため、とあるが、要は、それだけ法然の教えが正確に理解されずに、既成の仏教を否定する、反体制的な教えとして受け取られていたのであろう」(p.202)と阿満利麿氏は推定している。

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