『愛読の方法』(2018)

読書時間

前田英樹『愛読の方法』ちくま新書、2018年

めくっていったら、デカルト『方法序説』(1637年)、吉川幸次郎『読書の学』(1975年)や「最上至極宇宙第一」の本の話が出てくる。そうなると買わざるを得ない。

前田英樹氏は本とは何であったかという根本を問う

プラトンの『パイドロス』から始める。

前田英樹氏はソクラテスの「問答法」のなかに言葉の力と理想を見出す。

「自分自身にみならず、これを植えつけた人をもたすけるだけの力をもった言葉であり、また、実を結ばぬままに枯れてしまうことなく、一つの種子を含んでいて、その種子からは、また、新たなる言葉が新たなる心の中に生まれ、かくてつねにそのいのちを不滅のままに保つことができるのだ。そして、このような言葉を身につけている人は、人間の身に可能なかぎりの最大の幸福を、この言葉の力によってかちうるのである」(藤沢令夫訳『パイドロス』岩波文庫 P170、277A)。

前田英樹氏は「ほんとうに教え、学ばれる言葉は、生身の人間の、その口から出る言葉のなかにしかない、というのがプラトンの動じない信念なのだ。」(P021)という。

ここには「私たち人間種は、独りでいる時でも、自分に向かって、心の声で話し続けている。私たちの意識、言い換えると、「精神」は、言語という時間から、それが創り出す意味の振動から、決して離れて生きることができない」(P027)。

にもかかわらず、文字に書かれた言葉は、動かない。

中島敦の「文字禍」を読んでもここまで読み取れない

文字禍とは、読んで字のごとく文字がもたらす「禍(わざわい)」のことを指す。「文字禍」は文字という道具をについてのイロニーを含んだ寓話だが、文字への批判がある。

「言葉は、話されることにあるのでも、書かれることにあるのでもない。言葉だけの領域で運動している。その運動が、話し手と聴き手とを交互に創り出す。いや、話している者も、自身が話す言葉の聴き手なのだから、話すこと、聴くことは、いつも同時に成り立つ運動なのだと言える。それが動物のなかに人間を、意味を求めてやまない人間を創り出している。<物>だけの世界にはない、<意味>という類例のない運動を求めて生きる不思議な動物を、である。この事実を、文字は巧妙に、時には、ほとんど狡猾に隠す。そのことが、どれだけ人間を損なうか。文字に対して最もふかくから為される批判は、どこで、いつ為されようと、このことを撞いている」( P039)。

「私たちが恐るべき「文字禍」から救われる道は、愛読という行為にある」(P047)。

「書かれたものには、愛読という行為が成り立つのだ」(P047)。

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