「天正九年、信長の馬揃(「御馬汰」)とその後」

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河内将芳「天正九年、信長の馬揃(「御馬汰」)とその後」『日本歴史』2020年11月号、吉川弘文館

「天正九年(1581)2月28日と3月5日の二度にわたり、京都においてに馬揃がおこなわれた」(P23)のは知られている。河内将芳氏は馬揃がおこなわれた場と、その場が馬揃後にどのようになっていったのかという点に注目した。

内裏の東に「南北四町、東西一町余」(『兼見卿記』天正九年二月二一日条)の馬場を設けて馬揃がおこなわれた。

「内裏の東側が高倉小路(高倉通)に該当するので、そこから一町へだてた万里小路の間まで」(P26)、「一条大路(一条通)と近衛大路(近衛通)のあいだ「四町」」(P26)に馬場はあったという。

天正一二年までは馬場は存在していた。『言経卿記』には「柳馬場」とあり、柳が植っていたのだろうか。その後、豊臣秀吉の時代となり忘れ去られたという。

柳馬場通という万里小路の跡の通りがある。現在も万里小路町という町名が残っている。なぜ柳馬場通というのだろうか。天正一七年に二条に遊郭が造られて、柳の並木があったことで二条柳町といわれたからとか、慶長九年豊国祭の臨時祭礼で馬揃がされたとかいうのを読んだことがあるが、そもそも信長が馬揃した馬場があってのことだろうと思う。河内将芳氏は豊臣秀吉時代に信長の事績は消されたと書いているので、柳馬場通の由来を信長まで遡るとは書かなかった。

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