『職業としての政治』(1980)

読書時間

マックス・ヴェーバー、脇圭平訳『職業としての政治』岩波文庫、1980年、2006年第44刷

父は政治家だった

マックス・ヴェーバの父は「彼はゲッティンゲンとベルリンで法学を学び、博士号を取得した。そしてその知識とキャリアで政治に関わっていく。息子のマックスが生まれたとき、父はエアフルトの有給の市参事会員をしていた」(『マックス・ウェーバー』野口雅弘、中公新書、2020年)。

野口雅弘氏によると、市参事会員は、「要するに、聖職者や貴族に対して、市民(ブルジョワ)が都市の行政に送り込んだ自分たちの代表である」(前掲書、P8)。

その経緯もあってヴェーバーの『職業としての政治』にどのような影を落としているのだろうか。

政治とは何か

ヴェーバーは政治から、始める。それも国家をテーマとする。

「政治(ポリティーク)とは何か。これは非常に広い概念で、およそ自主的におこなわれる指導行為なら、すべてその中に含まれる」(P8)。

「今日ここで政治という場合、政治団体ーー現在でいえば国家ーーの指導、またはその指導に影響を与えようとする行為、これだけを考えることにする」(P8)。

「国家とは、ある一定の領域の内部でーーこの「領域」という点が特徴なのだがーー正当な物理的暴力行使の独占を(実効的に)要求する人間共同体である」(P9)と定義している。

支配の正当性

「国家も、歴史的にそれに先行する政治団体も、正当(レギテイーム)な(正当なものとみなされている、という意味だが)暴力行使という手段に支えられた、人間の人間に対する支配関係である。だから、国家が存続するためには、被治者がその時の支配者の主張する権威に服従することが必要である。では被治者は、どんな場合にどんな理由で服従するのか。この支配はどのような内的な正当性の根拠と外的な手段とに支えられているのか」(P10-11)。

正当性の根拠は「永遠の過去」がもっている権威が神聖化された場合、「天与の資質(カリスマ)」、「合法性」の三つであるという。

「どんな支配構造も、継続的な行政をおこなおうとすれば、次の二つの条件が必要である。一つはそこでの人々の行為が、おのれの権力の正当性を主張する支配者に対して、あらかじめ服従するように方向づけられていること。第二に、支配者はいざという時には物理的暴力を行使しなければならないが、これを実行するために必要な物財が、上に述べた服従を通して、支配者の手に掌握されていること。ようするに人的な行政スタッフと物的な行政手段の二つが必要である」(P14)。

ようするに君主にはスタッフが必要だった。

「職業政治家」の登場

「「職業政治家」は君主に奉仕する形で登場してきた」(P18-19)。

過去における「職業政治家」としてヴェーバーが挙げているのは、君主にとって等族(シュテンデ)に対抗する上で、政治的に利用できる階層の、その一番は聖職者(クレリカー)で、第二は人文主義的な教養を身につけた文人(リテラーテン)〔読書人〕である。第三の階層は宮廷貴族(ホーフアーデル)である。第四の範疇はイギリス特有のもので、小貴族と都市在住の利子生活者を含む都市貴族(パトリツイアート)、専門用語で「貴紳(ジェントリー)」、第五の階層は大学に学んだ法律家(ユリステン)である。

この階層に官僚を入れていないのは、ヴェーバーが「官僚政治」を嫌っていたからであろう。

さて、ヴェーバーは「民衆政治家(デマゴーグ)」を西洋における政治指導者の典型と挙げている。そして、「政治評論家、とくにジャーナリストはこの種の人間の最も重要な代表者である」(P42)とした。

次に、政党職員という形態が出てきたのは、最近(当時、やっと数十年、一部ではここ数年来)のことである。

政党の話となるとヴェーバーは饒舌で、「院内幹事」にまで話が及ぶ(P58)。アメリカの「猟官制」に話が及ぶが、ここでは省略する。

職業政治家の資質

職業政治家となるルートを延々と語った後、ヴェーバーは「このような職業はどんな内的な喜びを与えることができるか。またこのような職業に身をささげる人間には、どのような個人的前提条件が必要とされるであろうか」(P76-77)と問う。

政治という職業が与えるものと第一は権力感情(マハト・ゲフユール)である。ヴェーバーはその後、政治家の資質の話を始める。それは、情熱(Leidenschaft)、責任感(Verantwortungsgefühl)、判断力(Augenmaß)の三つの資質だという(P77)。

「仕事」としての政治のエートス

そして、「信仰」の問題をあげる。「仕事(ザツヘ)」としての政治のエートスに残りの時間をさいている(P82)。

「およそ政治というものは、それが目指す目標とはまったく別個に、人間生活の倫理的な営みの全体の中でどのような使命を果たすことができるのか。言ってみれば、政治の倫理的故郷はどこにあるのか」(P82)。

もう、マキャベリの話を聞いているような気がする。本書でマキャベリを言及したのは三箇所ある。

「本当にラディカルな「マキャベリズム」(P95)。

「マキャベリの『君主論』などたわいもないものである」(P96)。

「マキャベリはーー私の思い違いでなければ、『フィレンツェ史』のある見事な一節〔第三巻〕でーー、自分の魂の救済よりも自分の都市の偉大さの方を重んじた市民たちを、一人のヒーローの口を藉りて賞讃している」(P101-101)。

『フィレンツェ史』はマキャベリ全集があるのだが、段ボールに遮られて手が届かない。いつか、内容を確認するが、訳者が〔〕で補っているので、引用は正しいのだろう。

そして、「倫理と政治との関係」が述べられる。この倫理の問題は重い。「倫理的に方向づけられたすべての行為は、根本的に異なった二つの調停しがたく対立した準則の下に立ちうるということ、すなわち「心情倫理的」に方向づけられている場合と、「責任倫理的」に方向づけられている場合があるということである」(P89)。それだけでなく、手段は目的を正当化かするかが考察される。

「倫理的に善い目的は、どんな時に、どの程度まで、倫理的に危険な手段と副作用を「正当化」できるか」(P91)も証明できないことだと言っている。

最後に悪魔を出してくる。

「暴力的手段を用い、責任倫理という道を通っておこなわれる政治行為、その行為によって追及されるすべてのものは、「魂の救済」を危うくするからである。しかしこの「魂の救済」が純粋な心情倫理によって信仰闘争の中で追及される場合、結果に対する責任が欠けているから、この目的そのものが数世代にわたって傷つけられ、信用を失うことになるかも知れない。なぜならこの場合、行為者はそこに働いている悪魔の力に気づいていないからである。悪魔の力は情け容赦のないものである。もし行為者にこれが見抜けないなら、その行為だけでなく、内面的には行為者自身の上にも、当人を無惨に滅ぼしてしまうような結果を招いてしまう」(P101)。

ゲーテの『ファウスト』第二部から引用する。

「悪魔は年をとっている」。「だから悪魔を理解するには、お前も早く年をとることだ」。

「政治とは、情熱と判断力の二つを駆使しながら、堅い板に力をこめてじわっじわっと穴をくり貫いていく作業である」(P105)。

「断じて挫けない人間。どんな事態に直面しても「それにもかかわらず(デンノツホ)!」と言い切る自信のある人間。そういう人間だけが政治への「天職(ベルーフ)」を持つ」(P106)と結んでいる。

1919年1月、第一次大戦後のドイツのミュンヘンのある学生団体のために行った講演はもう一つあった。『職業としての学問』にまとめられた講演である。この印象は前に書いた。そしてこの『職業としての政治』もまた、厳しい内容であったと思う。

注)『職業としての学問』(1980)

コメント

タイトルとURLをコピーしました