五味文彦『日本の中世を歩く ーー遺跡を訪ね、史料を読む』岩波新書、2009年
第7章 江戸浦の網にかかった浅草の観音
浅草の観音様の縁起を読んで、神話時代、歴史時代、縁起の近代と三つの部分に分けるのはいかにも歴史家であると思う。
「ここで特に注目したいのは、「伏見院御宇正応二年」と始まる、大輔聖(だいふのひじり)が勧進して造営にあたったという話である。というのも、これ以前の造営・再建では、国司や武家などの政治権力による庇護を得ていたが、この時から勧進によって造営がなされているからである」(P102)。
中世は聖の時代である。
浅草寺の東北は武蔵石浜といったが、ここにも一遍聖人の足跡がある。石浜は湊町として栄えたという。今戸神社の今戸も昔は今津といったと云う。
五味文彦氏も「どぜう」で一杯を味わったとあるのが微笑ましい。やはり浅草は「どぜう」のイメージらしい。
第8章 菅生の岩屋に霊験を感得する
一遍聖人の生涯を扱うこの章は『一遍聖絵』の成り立ちに言及する。一遍聖人が伊予国の武士,河野通広の子として誕生した話や菅生(すごう)の岩屋で修行した話を読みながら、『一遍聖絵』を見ると、五味文彦氏でなくてもその岩屋寺を見に行きたくなる。岩屋には梯子を使って登ることができるということだったが、同行者に止められて残念だそうだ。
第9章 萱津に宿と市のざわめきを聴く
「萱津は尾張の西部、庄内川に沿って生まれた東海道の宿駅である」(P133)。
ここでも『一遍聖絵』がとりあげられ、萱津の甚目寺(じもくじ)が紹介される。この時代は五味文彦氏によると以下の言葉で現される。
「十三世紀の後半から日本列島は大きな変動の波に洗われたが、その波動は大陸のモンゴルの活動によって加速化していった。列島の各地には武蔵の石浜のような湊町が生まれ、京や鎌倉の政治都市が活況を呈し、東海道などの道々に沿って新宿が成立した」(P132)。
そして、東西の行き来が活発になると『海道記』『東関紀行』『十六夜日記』『春の深山路』『とはずがたり』などの紀行文が書かれるようになったと云う。
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