上山春平『城と国家 戦国時代の探索』小学館、1981年
Ⅰ 山城と国家論
国家論へのアプローチの復習である。
上山春平は徳川幕府を「外来の律令国家の解体過程で、日本の風土から自生した国家プラン」(『埋もれた巨像』1977年)と捉えており、「『埋もれた巨像』は藤原不比等論の形をとった律令国家論であったが、つぎのテーマは、徳川家康論の形をとる幕藩体制論になるのではないか」(『城と国家』P11)と書いている。「不比等や家康を、ヘーゲル風の表現を借りれば、時代精神の象徴としての「具体的な普遍」として」(同上)とらえると言っていることが、哲学者らしく面白い。どこまで成功したのかは、私はまだ確認していない。
家康ノートから山城ノートへ
上山春平の「山城ノート」の最初は1974年6月22日に徳川家の先祖、松平氏の発祥の地、三河の松平郷で、松平氏の館趾を訪ねているが、郷敷城には登っていない。山城ノートになっていない。ノートの表紙の紙を剥がすと家康ノートと書いてあった。家康の出発点から江戸城へという到達点の城を訪ねたノートなので「家康ノート」だったのでした。それが、「山城ノート」になってのは、どうやら山城に開眼したせいのようだ。都築泉氏に家康の祖父の清康が拠点とした山中城を案内されて強烈な印象を受けたと書いている。その後、広島大学へ集中講義で訪れた際などに訪れた熊谷氏の伊勢ヶ坪城から高松城へという推移と毛利氏の郡山城から広島城への推移に、鎌倉期の山城から戦国期の山城への推移と、戦国期の山城から近世的平城への推移に気がついたことによる。
コメント