『日本アルプス登攀記』(1995)

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ウォルター・ウェストン、三井嘉雄訳『日本アルプス登攀記』平凡社東洋文庫、1995年、1999年第3刷

英国のアルパイン・クラブが所蔵するウォルター・ウェストンのフィールド・ノートを翻訳したもの。4年分の記録である。

1894年ホリデイ・ツアー

1894年朝鮮への旅

1912年妙義山、燕岳、槍ヶ岳、奥穂高岳

1913年槍ヶ岳、焼岳、白馬岳

1914年北日本アルプス、富士

ウェストンの1回目と3回目の来日に対応している。

岡村精一訳の『日本アルプス』(平凡社ライブラリー、1995年)の該当箇所と読み比べてみる。当時の日本の夏の暑さに悩まされただけでなく、宿のサービスも不快な思いをさせられたようだ。フィールド・ノートは支出もメモしており、法外な請求に値切ったことが書き残されている。

『日本アルプス』の第11章がホリデイ・ツアーに該当する。フィールド・ノートに書いてあるものが使われたのと、本人の記憶で書いたものがある。私も旅行の記録をメモっているので、メモを頼りにするが、書く内容は記憶に依存している方が多い。発表するものは抑制が効いている。

日清戦争が1894年7月25日に始まている。ウェストンが朝鮮の旅をしたときの

10月1日から10日の記録ある。何しに神戸から仁川へ行き、教会伝道連盟にいるランディス医師に会い、ソウルの病院を視察したのか。戦時下の朝鮮である。会っているのは教会関係の医者である。見かけるのは日本軍関係者で物見遊山の旅ではない。

1912年の夏の旅は妙義山から始まるが、フィールド・ノートには上高地のメモが先頭に記されている。この三度目の来日したときのフィールド・ノートは支出の明細がなくなり、出来事の記載が多くなる。

1913年は日記風の読み物になっている。

1914年はめでたく富士登山で終わる。

注)読んでいて思ったのは、松尾芭蕉の『おくのほそ道』には『曾良随行日記』というフィールド・ノートが残っているが、松尾芭蕉自身のフィールドノートが何故残っていないのかという疑問だった。僅かに「銀河の序」が柏崎の記録としてある。その点、W.ウェストンも一部のフィールド・ノートが伝わっていて、本との違いが見えて面白い。

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