『蒙古襲来』(2001)その3

断片記憶

網野善彦『蒙古襲来』小学館文庫、2001年、2005年第2刷

3.時頼の二面性

重病におちいった兄の経時から19歳で執権を継いだ北条時頼は一族の名越光時との争いに勝ち(1246年)、宝治合戦(1247年)では有力な御家人の三浦一族を滅ぼした。20歳の時頼は武力で敵を制圧してみせた。

時頼は、徒然草では最明寺入道として出てくる。時頼は29歳で出家し、鎌倉山内の別邸(最明寺)に退いたが得宗として指導的立場だったと網野善彦はいう。

第184段では、時頼の母である松下禅尼がわざと障子の破れたところだけ修理して若い人(時頼)に見習わせたいと、兄の安達義景と会話するエピソードだ。兼好に「世を治むる道、倹約を本とす。」と感嘆させた。

第215段では、大仏宣時の昔語りに登場する。ある夜に時頼に呼ばれた宣時が人の寝静まった台所で小土器に味噌が付いたのを見つけたのを喜ばれ、数献におよんだというエピソードが披露される。

網野善彦は、徒然草のエピソードをここまでにし、「鉢木」へ話題を転じた。しかし、徒然草を読んだことがあれば、続く第216段をどう解釈するべきか疑問が残る。

時頼が鶴岡八幡宮に社参した帰りに、足利義氏のもとへ、使者を遣わして、馳走を求め、饗応されたおり、足利の染物を所望した。義氏は時頼の前で女房供に小袖をつくらせ、後で届けたというエピソードである。

若い時頼の分別のない行動としか思えないが、兼好はあの時頼でさえもこんなことがあったと、誰かに戒めとして語って聞かせたかったのか。小袖をその場で作ってみせたのに、後で届けることに何か意味があったのか。このあたりを解説で読みたかったが、あいにく本が探せずに、kindleの青空文庫版で読んでいるので、これ以上には進めない。ここに疑問を残しておく。

話がそれたが、「鉢木」などの話が伝わっていれば兼好が書いたであろうに違いない。「鉢木」などのおとぎ話が時頼について回るのは何故なのだろうか。

注)

研究所という名の部屋に戻って、兼好法師、小川剛生訳注『新版徒然草 現代語訳付き』(角川ソフィア文庫、2015年)を本箱の中から探し出した。第215段の注は「時頼の簡素な生活を回顧。暗に当時の幕府要人の華美奢侈に対する慨嘆があろう。」とあった。これは分かる。しかし、第216段の注を見ても何も触れていなかった。

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