神崎繁『プラトンと反遠近法』講談社学術文庫、2025年
(書誌情報)
『プラトンと反遠近法』新書館、1999年を文庫化したもの。注と人名・作品名索引があり、解説を山内志朗氏(中世哲学、慶應義塾大学名誉教授)が書いている。320頁あるが、308頁以降は既刊案内である。
あとがきに亡弟のために小さな紙碑を建てるこが書いてあった。エピグラフを見ると、
In memoriam Minoru KANZAKI
(1955.8.28-1983.8.12)
Accipe fraterno multum manantia fletu, atque in perpetuum, frater, ave atque vale.
Catullus
ラテン語はGoogleのAIによると、カトゥルス(Catullus)の詩の引用で「兄弟の涙に濡れたる贈り物を永遠に受け取りたまえ、兄弟よ、さらば、そして永遠に」といった意味だという。
神崎繁(1952-2016)の弟さんは同い年生まれなので、若くして亡くなられたことの実感がある。書籍目録にも書いたが、本書は山内志朗氏が解説を書いているので、それを読むために購入した。
神崎繁の文章を読んでいると自分の知識の曖昧さに気付かされる。本書を書く動機についての文章だ。
「ハヴロックの『プラトン序説』に対抗するわけではないが、広い意味での「音楽術(ムーシケー)」を中心とした彼の書物とはまた違った角度から、「光学」ーーというよりその「不在」に焦点を当てた、私なりの、もう一つの「プラトン序説」のつもりである」(pp5-6)。
この文章を説明することは本書のテーマそのものなので措くとして、次の付け足しの文章は、ちょっと困る。これを批判するだけの見識を持ち合わせていない。ルーブル美術館で見たミロのヴィーナスにはそんな説明はなかったし、京蔵さんの『フェードル』の芝居の時のパンフレットにもそんなことは書いていなかった。
「これに付随して、ちょうど、本当はローマ時代のレプリカである「ミロののヴィーナス」を通して古代ギリシアの彫刻を見たような気になったり、実際にはむしろラテン悲劇の影響の強いラシーヌの『フェードル』を観て、エウリピデスの『ヒッポリュトス』の影響をそこに想像したりするのと同様に、ルネサンスのプラトン主義の背後に、直接プラトンその人の哲学を読みとることは、まさに思想的な「遠近法」の錯視によるものであることーーこれが、この本を書かせた動機の一つであるということは、やはり初めに言っておきたい」(p.6)。
前書きというあとから書くものは凝縮されているので難しい。前書きだけで時間になってしまった。
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