『中世社会の基層をさぐる』(2011)その2

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勝俣鎭夫『中世社会の基層をさぐる』山川出版社、2011年
本論文のメインはなんといっても「中世の家と住宅検断」である。勝俣鎭夫氏が『中世の罪と罰』(東京大学出版会、1983年、のち、講談社学術文庫、2019年)で「家を焼く」を書いて批判されたことに対して、「住宅検断の目的に関する見解の相違の最大の原因となっている、その対象物である中世社会の「家」に対する観念のあり方を問題にすることにしたい」(p.31)として論じ直したもの。
「住宅検断」とは何かは、勝俣鎭夫氏の説明をみる。「日本中世の荘園制社会においては、荘園の内部で犯罪が発生したばあい、荘園領主は、犯人を追放などに処するとたもに、犯人の住居を「焼却する」・「破壊する」・「検封する」といった、いわゆる「住宅検断」を執行することを常としていたことを指摘した。そして、このようなかたちをとる住宅検断は、犯人の追放(払う・祓う)という形態と同じく、領主が犯罪の発生を「ケガレ(穢れ)」の発生ととらえ、その穢れを領内から駆除して、領内に「ワザワイ(禍・災)を招くことを防ぐための処置であったと位置づけられるとした」(同上)。
我々は基本的に中世社会を知らない。家に罪科を処すという考えは、あたかも家の人格を認めるようなものである。
勝俣鎭夫氏が『徒然草』を引用していた点も興味深い。私は『徒然草』を読めていなかったことに気付かされた。
「「徒然草」(二〇五段)には、「法令には水火の穢れを立てず、入物には穢れあるべし」という、律令などで定められた法的世界、またはそれが前提としている社会のあり方と、古代・中世の現実社会のあり方との間に横たわる大きな乖離を指摘した興味深い一節がある。卜部兼好がのべているように、律令では、あたかもそれが存在しないように扱われているが、原始以来、穢れた水や火、浄めの水や火が呪術的・宗教儀礼だけでなく、それと深く結びついた社会生活全体に大きな影響を及ぼす力として作用していたことはいうまでもない。そして、「穢れた火」が存在する証拠とされた火の「入れ物」を代表するものとして、神祇官の家の出である兼好の念頭にカマドがあったこともまた確実であろう」(p.68)。
公家よりも武士の法律でかえって起請文を重視したらしいと小川剛生氏は『新版徒然草 現代語訳付き』(角川ソフィア文庫、2015年)で注(p.192)をしている。
久しぶりに『中世の罪と罰』(東京大学出版会、1983年)を取り出して読んでみようと思う。もっとも、講談社学術文庫の桜井英治氏の解説も読みたいところだ。本の置き場がないので、図書館で済ますことにするか。
注)小川剛生氏が「卜部兼好伝批判ーー「兼好法師」から「吉田兼好」へ」(国語国文学研究〔熊本大学文学部〕49、平26・3)で指摘しているように、兼好法師の出自は不明である。

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