磯田道史、倉本一宏、F・クレインス、呉座勇一『戦乱と民衆』講談社現代新書、2018年
国際日本文化研究センターの一般公開シンポジウム「日本史の戦乱と民衆」(2017年10月)をもとに、ディスカッションを加えて作られた本。
2018年3月8日にクレインス氏の講演を聴いてオランダ商館の史料を使った話が新鮮だった。今回も、1614年8月4日から1616年12月29日までの平戸オランダ商館長か受け取った書簡を使った話で、大坂冬の陣と夏の陣が伝えられていた。オランダ人が堺など商売先に来ていて現地の情報を報告したていた。このあたりはイエズス会の報告しか知られていなかった。
大坂夏の陣図屏風(大阪城天守閣所蔵)がアントワープの大虐殺(アムステルダム王立美術館所蔵)の銅版画に似ているという指摘や、徳川軍の乱取りが行われた状況について、家族を伴った大坂方の牢人が冬の陣で空き家になった家を占拠していたとからと想像すると分かりやすい。
磯田道史氏は禁門の変の庶民の回想を扱った『京都日出新聞』の「譚淵 甲子兵燹(かっしへいせん)」という連載(1900年9月から10月)を取り上げて、同時代の一次史料を絶対視する見方を批判して、「同じ時代を生きた人の証言であれば、のちにその当時を回想して語った記録の方が同時代史氏よりも事実を語っているということもあります」(P89)として示した。一次資料の記述だから正しいという訳ではない。
京都に火を付けたのは、証言によれば、屋敷に火を放った長州はもとより、会津、桑名、薩摩が長州兵を追って火を放ったことが大きな原因で「どんどん焼け」となった。会津と桑名が一橋中納言の下知で放火したことで京都の町衆、公家や大名の恨みをかったとある。
呉座勇一氏は足軽の定義が難しいということから始め、土一揆の性格を論じていた。
倉本一宏氏は白村江の戦いついて、テレビで話した内容と同じことを書いていた。
このあと、座談会が二部と三部にあり、三部では井上章一氏も登場するのだが、時間切れである。
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