現代思想令和2年臨時増刊号『総特集 明智光秀』青土社、2019年
河内将芳氏が「信長はなぜ本能寺に滞在していたのか」を書いていたので読む。
河内将芳氏の『信長が見た戦国京都ーー城塞に囲まれた異貌の都』(洋泉社歴史新書y、2010年)と『宿所の変遷からみる 信長と京都』(淡交社、2018年)を読んでいるので、正面から本能寺の変を扱うことの難しさを河内将芳氏はよく分かっている。そこで信長が本能寺に滞在していた理由ではなく事実に迫ることになる。信長の本能寺滞在理由は推測するしかないのであるが、無防備な信長と信忠父子が京都滞在するという偶然の重なりをいうのである。
「こうして、京都に信長・信忠父子が滞在するさいには、信長が本能寺、信忠が妙覚寺というかたちができあがることになる。このようなかたちが周知となっていたからこそ、天正10年6月2日、明智光秀とその軍勢はまようことなく本能寺と妙覚寺を襲い、信長・信忠ふたりを死に追いやることに成功するわけだが、このときの滞在もじつは短期間なものとして予定されていた」(P52)。
「信長が安土より上洛したのは、5月29日(『兼見卿記』)であり、それから数日後に「西国手つかい、4日出陣」(『日々記』6月1日条)とみずからその予定を語っているからである」(P52)。
「いずれにしても、信長が本能寺に滞在し、そこを光秀に襲われるにいたった歴史的背景には以上のような事実の積み重ねがあったわけだが、その滞在期間が今回もまた数日たらずであったことを考えるなら、事件そのものが成立したのは、多分に偶然の産物であったとみるのが自然といえよう」(P52-53)。
歴史家が言えることはそこまでのようだ。
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