清水幾太郎『論文の書き方』岩波新書、1959年、2020年第100刷
渡部昇一が『発想法』(講談社現代新書、1981年)で清水幾太郎(いくたろう)を取り上げていた。そこで連想読書は清水幾太郎へ興味を向けた。清水幾太郎はラジオからテレビの時代に文章を書くことの困難さを書いていた。活字メディアの中で生きてきた人だけに経験と抽象の間を行き来する人間の思考を書いていて古臭くなかった。もっとも言葉遣いはルビでも振らないと今時の人には読めない漢字もあり、2015年の改版ではもっと手を入れてよかった。
清水幾太郎は本書の論文を「知的散文」と呼び、「内容及び形式が知的であるような文章」(P227)であるという。これでは詩ではないくらいの意味しかない。「知的」という言葉を定義せずに使うのが日本人らしい。以前読んだときは、ノートもとらなかったし、まとめを書かなかったこともあり、清水幾太郎の言葉で言えば、「糸が切れた風船のように、空へ消えてしまう」(P7)運命であった。大体、本もどこかへ消えてしまったので買ってきたくらいである。
本の内容をメモしながら読んでも、自分の言葉でまとめない限り消えてしまうし、いざ、まとめようとすれば、ほとんどが不要になる。大学生が本書を読んでも指導教員がいて発表させられることでもなければ、ふむふむで終わってしまうであろう。そういうわけで、自分のために記録するのがこのブログの役割である。メモはまとめる度に高次化する。重要度の低いものは消えてしまって構わない。
取り敢えず書いてみろと言われても書けるものではない。自分の気持ちや言いたいことを正確に表現する力がないから書けないのである。文章の修業は、真似ることから始めるしかない。何を真似るかが問題である。文体と思想は微妙な関係にある。文は人なりともいう。その思想に共感できなければ真似ることが苦痛になる。かと言ってお手本としての文章読本は時代遅れになった。清水幾太郎の『論文の書き方』は古びていない。
「美文の場合は、人間の正直な経験に優先して、文章の形式があり、文章を書くというのは、この形式に従うという仕事であって、経験を表現するという仕事ではない。伝統的な形式の前へ出ると、人間の経験などは吹けば飛ぶようなものである。無視してよいものである。文章の形式は行為の形式に対応する。道徳の世界には、忠孝を初めとして、立派な行為の形式が既に存在していて、自分の本当の気持ちがどうであろうと、真実の願いが何であろうと、行為の形式が気持ちや願いに優先していた。人間は本当の気持ちや真実の願いを押し殺して、形式に自分を従わせねばならなかった。美文の伝統は道徳の伝統とワン・セットのものである。」(P32)。
真実とかけ離れたことも美文調で書けると書いてある。戦前の人の文章も鵜呑みにはできない。伝統が書かせているというのだ。怖い話だ。
「新聞の文章は現代の美文である」(P47、P52)。
新聞のニュース本位と商業主義の性格から、社説を真似る危険性を指摘する。戦前の新聞の短評欄に執筆した経験から言っているので説得力が違う。「槍騎兵」に「敬神の思想」という短評を書いたことを例に挙げていた。「国民精神総動員」というファシズム運動を揶揄しながらも隙を見せない書き方になっている。
書くということは自分の思想を自分の言葉で表現することである。本音を書くことは勇気がいる。色々と読んで著者の表現力を吟味するしかないように思はれる。
注)少し古臭い漢字の使われ方の例
屢々 しばしば、かずかず 数々 P120
係蹄 けいてい、わな P143
宛ら さながら P148
鞏固 きょうこ 強固 P152
嘗て かつて P152
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