『不滅の哲学 池田晶子』(2020)その2

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若松英輔『不滅の哲学 池田晶子』亜紀書房、2020年

Evernoteの原稿を直してコピーしたつもりだったけど、Evernoteのデータが何故か以前のものになっていたため上書きしたのに元にもどってしまった。流石に呆れた。何を書いたか忘れたので、考え直してみた。

 

池田晶子の文章が引用されている。

「知ることが想起であると言われる理由もまた同じである。あるかじめ在るものを知るのであり、ないものを知ることは決してできない。「概念」が絶対的自己同一性として偏在している限り、知ることは正確に、確認、あるいは再確認である。「われわれ」が知るのではない。「概念」が、宇宙が、「われわれ」という場所において、既に在る自身を想起しているのだ」(『事象そのものへ!』)(P55)。

ここで「絶対的自己同一性」という言葉が出てくる。私の課題はこれである。

若松英輔氏は、「この言葉は、哲学者西田幾多郎の最重要の鍵語「絶対矛盾的自己同一」を踏襲している」(P56)という。若松英輔氏の言葉を引く。

「絶対矛盾的自己同一とは、絶対的に矛盾するものが自己同一でもあること、存在的に一たり得ないことが、不可避的に一なるものとして存在する、ということである。通常の現象としてはあり得ないが、実感として確かにある、あるいは、論理では容易に整合性を見出すことができないが、論理の彼方の世界へと導くものである」(P57)。

我々は養老孟司先生に言われるまでもなく、細胞レベルでは常に変化している存在である。昨日の私は今日の私ではない。しかし、私は自分の意識では一つであり続ける。そういう自己同一意識がある。

若松英輔氏は池田晶子の言葉を引用する。

「一に多を見、多に一を見る。多様に散らばっているものども、相対立しているものどもの背後に同一物を透視し、また、同一物が自身を多様に分割、相対立させる場面を感知する」(『事象そのものへ!』)(P57)。

若松英輔氏は、「ここでの「一」は、超越者一者である。「多」は私たち人間を含む被造物。「同一物」は、「一」の働きとしての「普遍性」である。超越者をあえて「神」、被造物を「万物」、「同一物」を永遠として先の一文を書き換えてみる」(P58)。

「神」に「万物」を見、「万物」に「神」を見る。多様に散らばっているものども、相対立しているものどもの背後に「永遠」を透視し、また、「永遠」が自身を多様に分割、相対立させる場面を感知する」(P58)。

見事な読替である。読めた気になる。

しかし、西田幾多郎の次の言葉を引用されると、またわからなくなる。

「知るということは、自己が自己を越えることである、自己が自己の外に出ることである。しかも逆に物が自己となること、物が我々の自己を限定することである。知るという作用は、知るものと知られるものとの矛盾的自己同一において成立するのである」(「場所的論理と宗教的世界観」)(P59)。

私はこの三章「哲学が生まれるとき」を意が通じるまで読み直すことになるのだろうか。

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