加藤陽子『天皇の歴史8 昭和天皇と戦争の世紀』講談社学術文庫、2018年第4刷
書誌情報
天皇の歴史全10巻のうちの第8巻、2011年刊行を文庫化するに当たり、「補章ーー象徴天皇の昭和と平成」として原稿用紙約百枚分を新たに追加している。文庫版のあとがきには「研究史に新たな論点を加えたと思われるもの、あるいは著者が特に強調したポイントなどを」(P455)箇条書きにしたという。
2014年に『昭和天皇実録』が公開された。補章および学術文庫版のあとがきの注を見ると補っていることが分かる。索引、年表、系図が備えてあり、500頁と分厚い。
昭和天皇を読むことの意義
昭和天皇について読むのは三冊目になる。
加藤陽子氏が学術文庫版のあとがきで、「山田朗氏の研究によれば、国家の最高意思決定の場である御前会議において天皇は発言しないとの慣例が作られたのは、三八年一月一〇日の内閣側の要請によっていた。一方、統帥用兵の意思決定の、場である大本営会議における天皇の様子は異なっていた。陸海軍の将官と天皇が臨席した大本営会議では、天皇からの自由な発言を歓迎する旨、軍部側が要請していた。これは、『実録』の三七年一一月二七日条から明らかになる。山田氏は、政府の前では沈黙し、軍部の前では発言するという、対照的な天皇像とそのよって来る要因について、『実録』から読み取っている」(P450)とコメントしている。
これなど、山田朗氏の『昭和天皇の戦争』(岩波書店、2017年)が典拠となったいる。最近読んだ山田朗氏の『大元帥 昭和天皇』(ちくま学芸文庫、2020年)は1994年と刊行時期は古いため、『昭和天皇実録』を直接利用できないが、読み直すとそれに近い話が出て来る。
「一九一四年八月一五日の大正天皇による御前会議以来、実に二五年ぶりに国策決定のための御前会議が宮中の御学問所を会場に開かれることになった。天皇は、枢密院本会議と大本営会議には「親臨」することになっていてが、国策決定のための御前会議は昭和天皇にとっては初めての経験である。御前会議には、大本営側から閑院宮・伏見宮両総長、多田参謀次長、古賀峯一軍令部次長、政府側から近衛首相、広田弘毅外相、杉山陸相、米内海相、末次信正内相、賀屋興宣蔵相が、そして天皇の特旨により平沼騏一郎枢密院議長が出席した」(P109、『大元帥 昭和天皇』)とある。
「御前会議で発言すべきか否か、天皇は迷った」(同上)。
ここから大本営会議と御前会議における天皇の行動の違いを読み取る必要があったが、私は読み飛ばしていたようだ。
「天皇は、結局この時は、西園寺や湯浅の言に従い、御前会議では何も発言せず、和平と継戦の両論併記的な「支那事変処理根本方針」が事務的に決定され、御前会議は一時間一〇分ほどで終了した」(同110頁)。
山田朗氏は以下のように結論する。
「ここで注目すべきは、なぜ天皇がこうまで迷ったのか、ということである。もし天皇が、西園寺や湯浅が考えていたように、大日本帝国憲法に規定された天皇の地位を純粋に立憲君主として理解・納得していたのならば、いろいろ迷うことはなかったはずである。むしろ、みずから御前会議の開催を言い出したり、発言すべきか否か迷ったということは、天皇が政戦略にイニシアティブを発揮した方がいいのではないかと揺れ動いていたことを示している」(同上)。
さて、加藤陽子氏の指摘を受けて、御前会議や大本営会議の性格を読みとるために、山田朗氏の『大元帥 昭和天皇』を読み返したくなる。
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