『天皇の歴史8 昭和天皇と戦争の世紀』(2018)その2

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政治的人間

政治的人間について、加藤陽子氏はマックス・ヴェーバーと武田泰淳の考えを取り上げていました。

マックス・ヴェーバーの「職業としての政治」に見える政治的人間は情熱、判断力、責任感をもって「国家の指導、その指導に影響力を与えようとする行為」(P12)をする人と考えられます。

「ヴェーバーは大戦中の一六年三月の時点で、自国政府が採ろうとしていた潜水艦作戦強化の方針に対し、そのような方策をとったが最後「敵側〔英仏側、引用者注、以下同じ〕は、時機を逸さずに到来するアメリカの参戦によって、物質的にも道徳的にも、実際にいつまでも戦争を続行することができる」ようになってしまうとして、潜水艦作戦を強く批判した意見書を、外務省をはじめとするドイツ政府関係者に送っていたような人物であった」(P11)。

「職業としての政治」を講演したヴェーバーは、まさしく政治的な人間でした。野口雅弘氏の『マックス・ウェーバー 近代と格闘した思想家』(中公新書、2020年)ではこのエピソードは取り上げられてませんでした。どのエピソードを選ぶかは書き手の考え方によるのですが、加藤陽子氏の掴みは良かった。

「本書が対象とする昭和天皇は、ヴェーバーが希望を託した、客観的課題に対して全責任を負担する精神をもった政治的人間ではなかった」(P15)と要約されると、自分の読み方と比べてスッキリしていることに羨ましくなります。

一方、武田泰淳は政治的人間を「歴史の動力となるもの、世界の動力となるもの」(P14、『司馬遷ーー史記の世界』(講談社学術文庫))と考えました。

「近代立憲制下の天皇は、政治的人間たることを禁じられて」(P15)いました。昭和天皇は「大日本帝国憲法第三条「天皇は神聖にして侵すべからず」によって、無答責の地位に置かれていた」(P15)のでした。

しかし、昭和天皇は「武田泰淳が太平洋戦争中に展望した意味での政治的人間(=歴史の動力となるもの)ではあった。最後の元老西園寺公望が四〇年に死去して以降においては、特にそうであったと筆者は考えている」(P20)。

本書はそのことの歴史的意味について語られることになります。

『職業としての政治』(1980)

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