日下力『いくさ物語の世界 中世軍記文学を読む』岩波新書、2008年
読み頃
この頃の本がよく箱の中から出てくる。花火のために部屋を整理していた若者が、床に積まれていた本を段ボール箱に詰め込んで外部倉庫へ出したままだったということだろう。一回り経って読み頃になっただろうか。読まなくてよい本を選別できただろうか。
物語にだまされる
文学と歴史で読み方が異なる。日下力氏は物語にだまされることの例をいくつかあげていた。早稲田大学の図書館は、『平家物語』を以前、歴史書に分類していたという。
「鎌倉時代の末、出家後の清盛が書いた直筆の願文なるものを目にしたある僧は、『平家物語』に、清盛は仁安三年(1168)十一月に出家して法名が静海(じょうかい)とあるのに、この願文は九月に書かれ、法名も清蓮とあるから、あやしい代物だと書き留めている(正安二年〔1300〕昌詮『性空上人伝記遺続集』)。『平家物語』の記述をもとに、真贋の判定をしたわけである」(P2)。
「実は清盛の出家は同年二月のこと、法名も当初は清蓮で、静海は改名後の名であった。となれば、願文は本物であったに相違なかろう。物語が出家の時期をずらしたのは、単純な錯誤に端を発したものかも知れないが、その後、度重なる改作の手が加わったにもかかわらず、正しい記述に至ることはない。それは、結局、物語には歴史的事実からは乖離した、物語独自の構想があったからに他ならない」(P2-3)。
歴史家は物語の史実を追い、史実に合わないものは史実でないと指摘する。文学者は作品の文面に即して読むことで「創作的場面や表現者によって煮つめられた言葉の水脈(みお)に行き当たる(P3)。そこで表現者の真意を読もうとする。
一次史料によって、物語に登場人物の発する言葉を再現することはできない。物語の作者の創作による。そこは分かっているつもりでも、個々の事実が違っていれば、確からしさがないとされる。
司馬遼太郎の小説がしばしば史実ではないと指摘される。司馬遼太郎が史実と虚構を区別できないように絡み合わせて提示したので、読者は史実と虚構の区別がつかないと批判される。そもそも小説を史実として読んでしまうことが問題なのではないか。時代劇は史実と違ってもよくて、明治時代を描いた小説は史実と違ってはいけないのか。
軍記物語の成立
本書は『保元物語』『平治物語』『平家物語』『承久記』がほぼ同時代に成立した軍記物語であることを特色にあげている。承久の乱以降に書かれたことは『六代勝事記』(貞応二年(1223)なしい三年)の影響があるとしている。
ここまで書いてきて、五味文彦『平家物語、史と説話』(平凡社ライブラリー、2011年)の「原平家物語」についてレファレンスしようと思ったけど、ブログに見当たらない。色々あってupし忘れていた。
注)著者の先生にあたる佐々木八郎から聞いたことだとしている。
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