谷沢永一『ローマの賢者セネカの知恵』講談社、2003年
好奇心が大切なことは分かる。しかし、好奇心に任せて手を広げすぎても仕方がない。自分が飽きない分野は何かを考えることになる。
研究には方法が必要だ。小松英雄氏の本を久々に取り出して考えさせられた。実地踏査と文献調査は研究方法の大きな区分だけれども、小松英雄氏の文献学的アプローチは解釈の方法論であり、文献の読み方そのものだ。
怒りはすべて抑えるべきか
「怒りと短気とがどう違うかは明らかである。(省略)怒っている人すなわち短気な人ではない。短気な人すなわち時に怒る人ではない」(P98)。
谷沢先生は人間の情念の発作をどうみたのか。
「セネカもまた人情を解すること細やかであったから、「怒り」と「短気」と「気むずかしい」との間に差を見出し、それら微妙に異なる気質に対して、どのように接すべきかの難題を思案している」(P100)。
「よほど明確な公憤でない限り、怒りは周囲の人々から同情されることはありえないという事情を思い知るべきである」(P101-102)。
「かねてから十分に精神を鍛えておき、たとえ大いなる発作に見舞われたとしても、できるだけ理性を速やかに取り戻し有効に制動機(ブレーキ)をかけて並足に帰するのが、平衡感覚のある社会人としての義務である」(P102)。
その点で、セネカの言葉は雄弁である。
「人間は相互扶助のために生まれたが、怒りは相互破壊のために生まれた」(P102)。
谷沢先生は感情に振り回されないための修練を挙げる。
「哲学であれ文藝であれ評論であれ、もしそこから何事かを教わりたいと望むとするなら、与えられる訓戒はすなわち人間と接触する方法に尽きるのである」(P110)。
「セネカは人柄を見抜く目を養えと勧める。間違いなく、相手の性格を透視する才覚こそ世に処する道の一大事なのである。しかしまた、生きてゆく道いおいて、これほど難しい努力目標はちょっと他に見出せない」(P113)。
谷沢先生は『論語』の為政第二の17章の「之れを知るを知ると為し、知らざるを知らずと為せ。是れ知るなり」を挙げて、「人柄とはしょせん、わからぬものである」(P114)と達観してみせる。
『論語』が出てきたので、子安宣邦先生の『仁斎論語 上』(ぺりかん社、2017年)の【大意】を引いてみる。仁斎の論語の解釈は納得できる。
「天下の事は限りなく、一人の智には限りがある。まして事は多端であり、知ることのできるものがあり、できないものもある。知りえないものをあえて知ろうとすることは、穿鑿的な知の過ちである。知りうるものでも、これをすべて知ろうとするのは、濫用的な知の過ちである」(P83、『仁斎論語 上』)。
『思想史家が読む論語』(岩波書店、2010年)は論語索引があるので、P233を参照する。
[評釈]孔子が子路に、知るところを知るとし、知らないところを知らないとせよ、というのは知識の有無をはっきりさせよというのではなく、何を知り、何を知るに及ばないか、といった己の知性というべき知のあり方を教えるものであろう。ソクラテスの対話は、知を誇るものに、知らないことを知らしめることにあったとされるが、それは孔子の教えにも通じることである。
何を知ろうとすることが自分にとって重要なのか、冒頭の反省に戻ることになる。
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