谷沢永一『ローマの賢者セネカの知恵』講談社、2003年
セネカを読もうと、書棚を探したけれど見つからない。処分したかも知れないが、自分が選んでないので記憶があやふやだ。また、思い出したらそのうち買うことにして、谷沢先生の「人生の使い方」の教訓を読むことにする。
なぜ人は人生を短くしてしまうのか。
セネカは「われわれは短い時間をもっているのではなく、実はその多くを浪費しているのである」(P20)と云う。
本当に大切なものを見定めて集中しなければならない。
時間の浪費に鈍感すぎるのだ。
好奇心が沸けば、その本を手に取ってきた。いつか役に立つかもしれないと思った本も買ってきた。しかし、研究者でもない限りいつか役に立つ本などというものはほとんどない。処分した後に買い直した本は数えるほどしかない。その時々に必要になって読んだものと、何がしかの興味を持って読んだものが本との付き合いで、大概は積読であった。
登山に夢中になっていたとき、将棋が楽しかったとき、それなりに本や雑誌を読んできた。今は、情熱が向かわない。雑誌や本が整理され、本棚には外国語の本と売れない本とが残っている。山行の記録や実戦譜は追体験してもう役目は終わったのだろう。それでも、高瀬ダムからの長いアプローチや、千天出合でキャンプ中に熊が出たと言う話を思い出すし、通ったときも辺りを気にしたりした。加藤文太郎はこの千天出合の少し先まで来て力尽きた。
京都に関して、旅の記録や案内の本をよく読んだ。それらは情報誌に近く、池波正太郎の『むかしの味』(新潮文庫、1988年)とか、『散歩のとき何か食べたくなって』(新潮文庫、1981年)のように読み返したりはしない。池波正太郎のエッセイの情報自体は古くなったが、何が嬉しいことか、変わらない喜びとは何かがうまい文章で書かれている。京都本は情報にしか価値はなく、役目は終わった。旅の記念のパンフレットも沢山残っている。これらは段ボール箱の中だ。
マネジメントに関する本も、当時のコンテクスト下で成立した話しが多い。アンケートに基づく行動など、導かれる結論を現在または将来の状況に適用できるかは疑ってかかる必要がある。エクセレントな会社も時の流れの中で魅力を失っていった。実務家であるから、情報は鮮度を保つ必要があるので、日々更新される情報をもとに自分の知識体系を修正していく。仕事をしていく限り変わらないが、引退すれば更新する必要がなくなり、急激に陳腐化すると思っている。そんなコンテンポラリーな知識は買えばいいだけで、大切なのは、根本的な考え方なのだ。事実、ダイジェストやデータベースは使っていたが、現役を退くと必要とされる知識の質が違ってくる。常識人であることがより求められる。これらの本の大半は大学院に寄贈した。
谷沢先生の教訓を読んでいるうちに、本に関して反省してしまった。あとは図録、歴史、思想に美術の本ということになる。セネカの話に戻ろう。
賢者はどのような心構えが必要なのか。
セネカは、以下のように賢者の心構えを云う。
「自由とは心を侮辱から超越せしめ、心そのものを、心の喜びが流れ出る唯一の源たらしめ、外的なもろもろの雑事を心自体から引き離すことである。それは結局は、世間一般の嘲笑や、同じく世間一般の評判を恐れて、不安な生活を送るようにさせないためである」(P40)。
セネカは心の平安を保つために、大衆の無知からくる侮辱的な言葉や悪口に耐えねばならないと云う。
谷沢先生の見立ては面白い。
「セネカは批判的な人物だったら実名を出すが、賢者については具体的な実例を挙げていない。恐らくはセネカが空想で描いた理想の人物像なのであろう」(P53)。
セネカの洞察よりも谷沢先生の洞察の方が私には納得しやすい。
ビジネスをしていれば、人と考えが異なる場面が多々出てくる。そのなとき、説得したり、影響力を行使したりして、己が良かれと思っている方向に進んでもらわなければならない。難儀なことである。
本はそう言う事例に使えて便利だったが、世の中がルールベースからプリンシプルベースになると、原理と現象に対する洞察力が求められる。説得は原理の理解に関わってくる。基準がないのでどこまですれば正解なのかどうか常に不安がつきまとう。
自分自身の人生をいきているか
セネカの言い回しは古典的だ。
「最も惨めな者といえば、自分自身の用事でもないことに苦労したり、他人の眠りに合わせて眠ったり、他人の歩調に合わせて歩き回ったり、何よりもいちばん自由であるべき愛と憎とを命令されて行なう者たちである」(P72)。
谷沢先生は人間は自己顕示欲ゆえにお節介をやいたり、他人の代理人として生きる愚行を挙げている。
「自分自身にとつてのみ有効で、喜びや楽しみをもたらす作業にだけ時間を費やすよう、合理的な自己限定を貫く意思力こそ肝要であり、人間の生活設定において何物にもまして貴重である」(P72)。
「われわれはともすれば己の持つ能力を顕示したいが為に、他人(ひと)の欲している事柄に手を出して、本当はどうでもよい問題を「解決してやった」と信じる自惚れに陥り、自分は人間味のある親切な人柄であると思い込みたがる」(P72-73)。
「人間の情念はおおまかに言って愛と憎とによって成り立っている。どちらも自己自身の内部から自然発生するからこそ意味がある。しかし、なかには自分を世の中に売りこむために、他人の内なる愛憎を利用する者があるのはいささかおかしい」(P73)
セネカの言葉も谷沢先生の解説を読むとピンと来る。セネカの修辞は少し古臭い。
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