- 谷沢永一『ローマの賢者セネカの知恵』講談社、2003年
セネカの警句を挙げる。
「人々が争奪を繰り返している間は、また相互に平穏を破り合っている間は、また、代わる代わる不幸にし合っている間は、人生には何の実りもなく、楽しみもなく、心の進歩しても何一つない」(P222)。
人生の短さをいうセネカの警句とは警句以上のことはないのだろう。
「これに反して、あらゆる雑務から遠く離れて人生を送っている人々には、その人生が長くないはずがあろうか。そこからは何ものも運び出されず、何ものも所々方々にばらまかれず、何ものもそこから運命の手に引き渡されるものはない。また怠慢ゆえに失われるようなものはなく、気前よく人に与えて奪われるものもなく、不要なものも全くない。言ってみれば、その全部が丸々収入のままである。それゆえ、その人生はいかに小さくとも十分に満ち足りており、従って、いつ最後の日が訪れようとも、賢者はためらうことなく、確乎とした歩みをとって死に向かって進むことになろう」(P233-234)。
平穏無事な生活を願えども、雑務を離れた生活はあるのだろうか。世に報告書は絶え間なく出てくる。ただ読むだけではすまない。リンクを保存して再検索に備えたり、ポイントをメモしたりする。話をして読んでいなそうなら、リンクを送ったりする。議事録にコメントしたり、会議の予定を調整する。仕事場の時間の積み重ねはそういうものだ。朝起きたら、新聞も目を通すだけでは済まず。必要な記事を保存する。週末は、フォルダーを整理して、参照資料一覧を更新する。
谷沢先生は、「セネカの思考法はいかなる場合も素朴な一元論であって、人間の思念と行動には少なくともプラスマイナスの電極が分離している対比を認めないかの如くである」(P235)と言う。
最後に来て、谷沢先生は本領を発揮する。セネカに時間の浪費を指摘してもらって、ハイそうでしたとしか言いようがない。
「元へ戻ってセネカはまた風呂敷に何も彼も包み込む一元論を持ち出し、雑務、という一語のみによって時間の浪費を貶斥する。
しかし、人間における生活の中味はにはやむをえぬ雑務の混入が避けられない。いかなる行為をもって完全な無駄と見做すか、セネカは分類を避けている。
また人生の長い短いは幸不幸の測定器ではない。満ち足りた人生とは閑暇がのっぺらぼうに続く状態なのか。セネカの理論には人生何を為すべきかの積極的な目標の検討がすっぽり抜け落ちているのである」(P236)。
戦後長い時間をかけて家族制度が崩壊し、核家族そして個へ分解する傾向を見ていると、人生いかに生きるべきか、他人との関係はどうあるべきか、自分とって幸福とは何か、それらの考え直しが必要だと思う。
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