子安宣邦『思想史家が読む論語』岩波書店、2010年第2刷
ちょっと参照するために読み出したのだが、面白いので読んでいる。別に読み通すつもりはないので、疲れたらやめる。
『論語』は色々と読んできたが、しっくりしない。本書は朱子、伊藤仁斎、荻生徂徠の解釈を対比しながら、子安先生が、過去の読み方を提示する。浅い読みもあれば深い読みもあるのが面白い。先王の道として徂徠のように方法論的に読む読み方もある。朱子は自身の宇宙論で解釈する。仁斎の読み方は偏らない。朱子の読み方でよければ取り入れる。徂徠は仁斎に対抗する意識が強い。
論語講義・序『論語』と学びの復権
「私の『論語』の読み方は伊藤仁斎の読み方にしたがうものである」(P20)。
『論語』の解釈について、伊藤仁斎の読み方にしたがうと言っている人を他に知らない。大概の解釈者は方法論的ではない。どのようにでも解釈できると思っているのだろう。『論語』は孔子の弟子によってテキストが編纂され、長く読まれることで現在のテキストとなった。原論語というものはない。先人の読み方にしたがって読まれてきたものである。
子安先生は仁斎にしたがって『論語』を読み直すことを言う。
「この読み直しを通じて私は『論語』における孔子の問いかけに直面するようになった。ある時期から私は孔子自身が「学ぶとは何か」「道とは何か」「政とは何か」「礼とは何か」と問い直しているのだと気付いた。『論語』とは孔子自身による問い直しなのだと知ることを通じて、私の『論語』とその解釈者の諸説に対する読み方は変わっていった。私の『論語』の読み直しは、先人の読み直しを辿り直す思想史的な作業から、私における根抵的な問い直しにつながる痛切で緊要な思想的作業になっていった。それにしたがって読み直し方も変化していった」(P21)。
確かに長い市民講座を通じて講義する側も変わったのであろう。それを読み取る読書というのもあるのかもしれない。
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