『「東洋」哲学の根本問題』(2018)その4

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斎藤慶典『「東洋」哲学の根本問題 あるいは井筒俊彦』講談社選書メチエ、2018年
本章は以下の3節で構成される。
第II章 空/無
a)「空」の徹底
斎藤慶典氏は井筒俊彦の「井筒における「無」と〈「無分節」の「存在エネルギー」〉の同一視ぶりを」(p.117)を批判する。
「本書が疑問に思うのは、なぜ井筒の言う「東洋」哲学が常に「無」と「無分節」を同一視し、両者が別のものである可能性の前に少しも立ち止まることがないのかという点なのである」(同上)。
「本書が、言葉の厳密な意味での「無」が思考の視野に入ることを重視する理由は、これだけではない。いまだ限定されない「存在エネルギー」の塊が限定されることによって何ものかが姿を現わすためにはーーただ「ある」のではなく「ある」ところのものが顕現し世界が開=披かれるためにはーー、その「存在(エネルギー)」に何かが生じなければならないかを考える上でも、このことは不可欠と考えるからだ」(p.123)。
b) 空と無
唯識のアラヤ識と『意識の形而上学ーー『大乗起信論』の哲学』で論じた『大乗起信論』のアラヤ識の違いが検討される。言語アラヤ識の復習になる。
c) 砂漠と死ーージャック・デリダ
井筒における「空」と「無」の差異の不明確さをジャック・デリダの捉え方から見ていく。
斎藤慶典氏の纒である。
「言葉が分節化=限定によって世界に意味をもたらす原点に絶えず立ち帰ること、すなわち「空」という無限定なものへの絶えざる帰還としての「砂漠における彷徨」、これが井筒の捉えるデリダである」(p.164)。
これでは、今はいいが将来は用をなさないかもしれない。

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