『和歌とは何か』(2009)その4

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渡部泰明『和歌とは何か』岩波新書、2009年、2013年第3刷

第4章 縁語ーー宿命的な関係を表す言葉

縁語の定義は難しいらしい。「今回は、間違いなく縁語と認められる例に限定し、禁欲的に考えてみることにしたい」(P79)と著者が「禁欲的」ということで慎重なスタンスであるが、それだけに選んだ歌の鑑賞は熱くなっている。

著者は縁語という特殊な関係には「二重性(掛詞(広義)」と「文脈の超越」が欠かせないという。

例として、以下の歌をあげている。

秋霧のともに立ち出でて別れなば晴れぬ思ひに恋やわたらむ

(古今集・離別・386・平元規)

「秋霧」と「晴れぬ」が縁語である。「晴れぬ」が霧が晴れぬと心が晴れぬの二重の意味があっても、文脈は二つに別れない。晴れぬ思いは心が晴れないことを言っているだけである。

次に、有名な伊勢物語第九段東下りの条の歌であるが、古今集では在原業平の歌としている。

唐衣着つつなれにしつましあればはるばるきぬる旅をしぞ思ふ

この歌は「かきつばた」を五句の先頭に据えた折句というレトリックで詠まれただけでなく、「唐衣」に対して「つま」(妻・褄)、「はる」(遥・張る)、「き」(来・着)が縁語になっているという非常に技巧的な歌である。しかし、一行は皆泣いた。感動しすぎのようにも思える。著者の解釈を引用することにする。

「意地悪くいえば、所詮言葉の偶然の組み合わせにすがった歌、と言えなくもない。が、話は逆である。偶然こそが大事なのだ。偶然の力、すなわち人の意思を越えた運命的な力によって、ある形がぴたりと決まる。その運命的な力を感じ取ることが、人々の心を一つにするのである。業平の歌は、たんに望郷の悲しみを表現しているのではない。望郷の悲しみが、今この場所での逃れがたい運命であることを、言葉において実現しているのだ」(P84)。

縁語が「二つの内容を結びつけ、それによって今ここの場、という現在性を強く浮かび上がらせる」(P87)というのだ。

著者は百人一首のなかで「一番うまい歌」として、皇嘉門院別当の歌をあげている。

摂政右大臣の時の家の歌合に、旅宿(りよしゆく)に逢ふ恋といへる心をよめる

皇嘉門院別当

難波江の芦のかりねの一夜ゆゑ身をつくしてや恋わたるべき

(千載集・恋三・807)

百人一首では「難波」の次が「江」「潟」「津」なのかで札をさらうことしか考えないが、「澪標(みをつくし)」など、ここで習うかあとは源氏物語でしか習うことはないと思う。

「「難波江」「芦」「かりね」「身をつくし」「わたる」と次々に繰り出される縁語も、最初から予定されていたかのように、居るべき場所に居る、という印象を与える。とくに、「一夜ゆゑ」と絞り込んでいった直後に、一転して「身を尽くしてや恋ひわたる」と心が暴走していく呼吸は、感嘆する以外にない」(P92)と解釈に力が入っている。

私は渡部泰明氏の解釈で歌を読んでいきたくなった。三十一文字による一回限りの表現がここまで感動を生むのは縁語による技巧を共有する心の働きがあるからであろう。

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