『世阿弥の稽古哲学』(2009)を読む

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世阿弥の稽古とは何か

1.「稽古」とは何か。

小西甚一は風姿花伝の「稽古」について、「原義は、「昔を考える」こと。先人の教えに基づいて研究し学修する意に用いる。練習もその一部分であるが、中心は研究である。多くは「研修」と訳すことにした」(『世阿弥集』注 P23)と書いていた。

西平直氏は『世阿弥の稽古哲学』(2009)で「この言葉が「古(いにしえ)」を「稽(かんがえる)」に由来するとか、身体的技芸の習得を通して精神修養を求めるとか、あるいは、一般的には伝統的な技芸の習得として用いられるとか、定義の要件はいくつか想定されるが、しかし本書における「稽古」はごく単純に、世阿弥の伝書が語る「稽古」である。伝書がこの言葉によって語ろうとした出来事・営み・意味内容。それが本書における「稽古」である」(『世阿弥の稽古哲学』(2009)註 P237)として、4つの意味内容が含まれるとした。

①「習道」「習学」

②「工夫」

③意識的工夫の先(工夫から離れ無心に向かうベクトル)

④後継者への伝授・承継

(注)

③は説明を要する(後述)が、①②④とて簡単に分かるものではない。

したがって、「能を学び・身につけ・習熟し、・研鑽を積み・芸を極めてゆく一連の出来事、さらにはそれを後継者に伝えてゆく営みも含めた出来事が、本書における「稽古」である」。

西平直氏の関心が「無心」にあることは『無心のダイナミズム』(2014)を読んでも分かることだが、この本は読み流したままでペタペタと付箋を貼ったっきりになっている。

今井むつみ氏の『学びとは何か』(2016)を読んだことで分かったのだが、西平直氏の分析に認知科学の視点がもっと欲しい。何故に理にかなうやり方なのか。先人達の教えをそのままには受け取れない。何故、学べるのか、何故承継できて廃れないのか。

「哲学」から「科学」へ視点を移した本を書いてくれないかなと思う。「世阿弥の稽古学」とか。

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