『和歌とは何か』(2009)その3

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渡部泰明『和歌とは何か』岩波新書、2009年、2013年第3刷

第1章 枕詞ー違和感を生み出す声

枕詞も分からないものの一つだ。知ってはいるが、理屈で考えることはできない。

著者は枕詞を三点から説明している。

主として五音で

実質的な意味はなく

常に特定の語を修飾する

例えば「あまざかる」は「鄙」を修飾する。

「修飾語はそれを含む文脈の中に位置付けられ、他の語との関係を生み出しながら、その文脈の中で定着していく。一方枕詞は、文脈の中に溶け込まない。いつまでも違和感を生み出し、孤立し続ける」(P27)。

「枕詞の意味が多くの場合分からなくなっているのも、一つにはこの孤立性が原因となっている」(P28)。

「枕詞とは、文脈から孤立した、不思議で不可解なものとしてあり続ける言葉」(P29)という。

うつせみの人目を繁み石橋の間近き君に恋ひわたるかも(万葉集・巻4・597・笠女郎)

この歌の枕詞が「石橋の」で「間近き」を修飾しているのが分かれば大したものだ。「石橋の」に意味はなく孤立している。私などは「うつせみの」が「世」や「人」の枕詞であると思ったが、この場合、「「うつせみの人目を繁み」の「うつせみの」は「世間の人の(人目)」という意味を持っていて、一首の文脈の中で生かされている、と見ることもできる」ので枕詞にしない説もあるという。

第2章 序詞ー共同の記憶を作り出す

序詞はもっと分からない。「枕詞よりももっと長く(二句以上もしくは七音以上)、しかもつながり方が固定的ではなくて、使用されるそのつど、新しい表現が工夫される点が異なっている」(P39)。

「ある種の懐かしさをかもしだす表現」(P41)と言っている。

巻向の痛足(あなし)の川ゆ行く水のたゆることなくまたかへり見む

(万葉集・巻七・1100・柿本人麻呂歌集)

「巻向の痛足の川ゆ行く水の」が「絶ゆることなく」に掛かっている。

著者は「巻向の痛足川を行く水は絶えないーー絶えることなくまたこの川を見よう。」(P55)と訳を添えている。私はこの調子の良い歌の解釈に違和感を覚えている。恋の歌の多い「柿本人麻呂歌集」だけに。

第3章 掛詞ー偶然の出会いが必然に変わる

掛詞は分かりやすいと思ったけど、左にあらず。広義と狭義がある。「一つの言葉が二重の意味で用いられるもの」が掛詞(広義)である。ここでは「掛詞そのものを主眼とした表現のことで、「掛詞(広義)」との違いは、一語が二重の意味になっているだけでなく、文脈までも二重になっていること」(P59)、である。

そして、掛詞を「古今集」の時代区分から、「読み人知らず時代」「六歌仙時代」「選者時代」に分けて鑑賞する。

小野小町の歌はよく引かれる歌だ。

花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに

「小町の歌の掛詞は、巧妙である。「ふる」が「降る」と「経る」の、「ながめ」が「長雨」と「眺め」の掛詞で、それぞれのうちの前者が春の風景の文脈、後者かわが身の文脈を形作る」(P68)。

六歌仙時代の歌は少し演技が過ぎる気がする。

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