岩鼻道明『出羽三山 山岳信仰の歴史を歩く』岩波新書、2017年
1.知らなかった出羽三山
出羽三山は知っているようで知らない。まだ、訪れたことがないこともある。松尾芭蕉の『奥の細道』と森敦の『月山』くらいしか読んだことがなく、あとは山岳宗教関係の本で断片的に取り上げられたものをみただけなので、知識が体系化されていないためだ。その意味でこの本は知識の整理に良かった。
2.羽黒山頂上行のバス
「第4章出羽三山を歩く」を楽しむためには座学としてそれまでの章を読んでおく必要があった。イキナリ第4章から読んだのでは何が重要なのかが分からない。明治維新で修験宗が廃止され、神仏分離で出羽三山がどう変わって現在へ続いているのかを大まかにでも知った上でないと単なる遊山になってしまう。前半の宗教民俗学の内容がややかたいのに対して、歴史地理学として出羽三山案内は昔の絵地図も掲載されてあり楽しい内容だと思う。
羽黒山(414m)を歩く
下世話な人間なので現在のことが知りたい。何と羽黒山頂上までJR鶴岡駅から路線バスがあると書いてある。岩鼻道明氏は「荒沢寺・ビジターセンター前」で降りて羽黒山頂まで歩くコースを勧めてくれる。そして麓の随身門までミシュラン三ツ星の杉並木のなかを2246段の石段を降りてくるコースを取れというわけだ。
月山(1984m)に登る
月山は簡単にはいかない。深田久弥の『日本百名山』の一つである。
湯殿山(1500m)へ下る。
そう月山から湯殿山へのコースだ。湯殿山の御神体が墳泉丘であることを読んできたので、頂上へ登る必要はない。頂上は山岳趣味の問題となる。
3.『奥の細道』と出羽三山
どうも出羽三山を登るのは今でも大変なようだ。松尾芭蕉のコースは特異と言っていたが、さてどんなものか。
松尾芭蕉達は羽黒山の本堂で俳諧興行を催し南谷の別当寺の別院に泊まっている。発句は「有難や雪をかほらす南谷」と挨拶していて『奥の細道』にも載せている。松尾芭蕉は別院所縁の天宥別当追悼句文(出羽三山神社所蔵)を揮毫している。天宥(てんゆう)別当は羽黒山を天台宗に統一したという。芭蕉と曾良は強力に導かれて月山を登拝し山頂の小屋に泊まり、湯殿山(真言宗)へ降り、宝前という御本尊を拝し、また月山へ登り返して羽黒山へ戻り句会をしている。相当応えたようだ。遊山であれば周遊コースなのに、山越えして戻るコースには何か意味があったのだろうか。芭蕉を天台の間者とみる説も紹介されていたが、岩鼻道明氏は湯殿山から即身仏のある注連寺に行き六十里越えから羽黒山へ戻るのは大回りになるので、月山へ登り返すのが近道と書いていた。私もそう思う。羽黒山での句会が終わっていない事情もあったので早く羽黒山に戻りたかったと考えたい。『曽良旅日記』では6月4日「俳、表計ニテ帰ル」、9日「花ノ句ヲ進テ、俳、終。」とある。
雲の峰幾つ崩れて月の山
4.『月山』と即身仏
森敦の『月山』(1974)に出てくる即身仏については岩鼻道明氏のコメントを引いておく。「出開帳された鉄門海上人の即身仏が行方不明になったために、行き倒れた遭難者を替え玉に即身仏に仕立てたという記述がみられる。しかし、1960年におこなわれた新潟大学医学部の科学的調査によって、鉄門海が残した手形と即身仏の指紋とが一致していることから、小説の記述は、あくまで創作上のフィクションであることが知られる」(P186)。
さて、ガイドブック好きの私としてはどういうコースで出羽三山へ参ろうか、想像するだけで楽しくなる。
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