谷沢永一の『本はこうして選ぶ買う』(2004)を再読する(その2)

読書時間

谷沢永一氏の『本はこうして選ぶ買う』(東洋経済新報社、2004年)の読み直しも二日目になった。ちちとして進まないのは、このような雑文を記録しているためである。知的生活には程遠い。

さて、論争対立から面白い本を探すことを述べたあとで、著者は、新刊書店における心得に入る。

我々は「まえがき」「あとがき」を読んで当たりをつけようとするが、出版社も待ち構えている。

「「まえがき」「あとがき」は出版社による宣伝行為であるに過ぎない。それゆえ眼光紙背に徹して読み取らないと馬鹿を見る。」(42頁)

「テレビのコマーシャルを誰も百パーセント信用しないように、やはり書物の前後に謳うところを丸呑みするわけにはいかない。」(42頁、43頁)

著者は本文で十分な立場である。

一貫して信用するなという態度に変わりはない。

次に編集に注目する。

一般書は装幀がしっかりしていることと目次がなげやりでなく綿密で詳しいことが目安となる。

学術書は索引が完備していること、索引の中でも事項索引が必要であるという。ここであげているのは全集における索引である。全集は引くためのものであり、事項索引がないのは不便であるとの指摘はまっとうなものだ。最高例として『中村幸彦著述集』をあげている。

もっとも学術書を使いこなすのは専門家なので、一般の読書人にとっては、スペックの高い要求であろう。同時代に生きていれば、単行本を買っているものだし、いきなり全集から入るケースのほうが例外的と思われる。

全集を買えば、単行本は不要になるのだろうか。著者はこのあたりについては何も述べていない。付箋や書き込みをしてある単行本は、手放せないだろうと思う。本を愉しむ立場からすれば、残りの人生で全集本を買うことはよほどのことがないかぎりないだろうと思っている。

「心から愛する書物を一冊また一冊、自分の愛する蔵書を増やし、ささやかでも我が文庫を充実させていく楽しみは、けだし何物にも替え難いであろう」(53頁)と著者も述べているのを推し測るばかりである。

谷沢永一の『本はこうして選ぶ買う』(2004)を再読する(その3)

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