佐藤信編『古代史講義【宮都篇】』ちくま新書、2020年
本書は15講からなり、古代の飛鳥の宮々から平城京、平安京、桃崎有一郎氏の『「京都」の誕生』(2020年)で扱った白河・鳥羽までがとりあげられています。その他に太宰府、多賀城、平泉もそれぞれの講義があります。
読んでいくうちに自分が見に行った時のことが思い出されましたので、本の内容をメモしながら、綴りました。
第7講 恭仁京
聖武天皇が740年(天平十二)に平城京を出立して東国行幸を始めて恭仁京(くにのみや)へ遷都しました。恭仁京は741年(天平十三)から744年(天平十六)と短い宮都でした。744年(天平十六)に難波京へ遷都して役目を終えています。
以前、木津川右岸の恭仁宮跡へ行きました。宝ヶ池のホテルからタクシーを使って南山城を回った時のことです。何でそうなったのか理由は忘れましたが、高麗寺跡を見て京都府立山城郷土資料館を見学したり、浄瑠璃寺や岩船寺のほうも見て回ってきました。海住山寺(かいじゅうせんじ)のある山へ登って行く道が分かりにくくて、乗務員さんが道を歩いていた人に「カイジュウサンジ」と言って怪訝な顔をされたのを思い出します。
史跡は恭仁宮大極殿跡(山城国分寺金堂跡)といいます。史跡の名前が二つあるのは、恭仁宮が廃止され恭仁宮大極殿が山城(山背)国分寺に施入された経緯があるためです。山城国分寺金堂跡は金堂の礎石が残るばかりです。東側に広がる平地に山城国分寺七重塔跡の大きな礎石がありました。草が刈られていて史跡として整備されてしました。当時は恭仁宮しか頭にありませんでしたが、恭仁京は木津川を挟んで構想された宮都なのでした。
第8講 紫香楽宮
紫香楽宮は恭仁京の離宮として742年(天平十四)から史料に見え、745年(天平十七)に新京となりましたが、5月には聖武天皇が平城京へ環都し役割を終えてしまいました。
ミホミュージアムから紫香楽宮跡へ行ったのは春だったと思います。紫香楽宮跡(甲賀寺跡)へ案内されました。紫香楽宮跡内裏野地区と呼ばれているところです。タクシーの乗務員さんは反対側で待つと言って車を出して行きました。私は林のなかを通っている東海自然歩道を辿って中に入って行きました。林床にミツバツツジの紫色の話が咲いていました。聖武天皇がこの地に盧舎那大仏を建立しようとしたということですが、とても宮があったは思われない小さな丘陵でした。礎石から東大寺式伽藍配置をもつ寺院跡であることが明らかになって、紫香楽宮跡の位置が問題になりました。ここは紫香楽宮跡ではありません。甲賀寺あるいは近江国分寺の遺址なのです。出口で車が待っていました。これから紫香楽宮跡宮町地区の田んぼに朝堂跡を見に行くということでした。新名神高速道路が山をカットする下を潜って開けた水田地区に出ました。紫香楽宮跡朝堂の遺構表示の看板が田んぼの畔に一つ立っているだけでした。ここが紫香楽宮跡でした。
第9講 長岡京
784年(延暦三)に桓武天皇が長岡京へ遷都し、794年(延暦十三)に平安京へ遷都するまでの宮都でした。
長岡京跡へは車で行ったので、住宅地の中の公園に車が止まってびっくりしました。大極殿公園にあるのは宝幢(ほうどう)を復元したものでした。7つのうち3基の柱堀形が復元されていて、最初見たとき、何かの抽象芸術かと思いました。
第4講の藤原京では「大極殿南門に烏形幢(はた)を立て、左側(東側)には日像・青竜・朱雀幡(はた)を、右側(西側)には月像・玄武・白虎幡を立てた」(P78)とありました。幢(どう)と幡(ばん)はいづれも「はた」と訓んでいますが区別されていました。第9講の長岡京では宝幢遺構と説明していました。何かしっくりしません。幢と幡の使われ方の違いをいつか調べてみたいですね。
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