呉座勇一『応仁の乱』中公新書、2016年
第4章 応仁の乱と興福寺
応仁の乱で興福寺の荘園から年貢が入らなくなると、興福寺の経営も難しくなった。そうした中、経覚(きゃうがく)が4度目の興福寺別当となる。寺務ともいう。しかし、経営再建に失敗してしまう。外部環境が悪過ぎたのである。
「応仁の乱で大和がほとんど戦場にならなかったのは、興福寺の権威が健在だったことと無関係ではない。筒井ら衆徒・国民は、小競り合いをすることはあっても、決して他国の軍勢を大和国に引き入れようとはしなかった。その理由の一端は、興福寺の法会や春日祭を無事に開催することにあったと考えられる。大げさに言えば、興福寺の存在が大和のを平和に保ったのである」(P143)。
なかでも面白いと思ったのは「林間」である。
「中世においては風呂を焚くことは、客をもてなす趣向の一つであった。」(P148)。経覚もこれを好んでいた。中でも文明元年の古市での「林間(りんかん)」の記述は驚くべきものがある。「林間」とは「淋汗茶湯」のことであるが、経覚は日記に「林間」のあて字を使っている。「風呂饗応」の派手なものであった。呉座氏も「応仁の乱のまっただ中に、このやうな豪壮な遊びが行われていた事実には驚かされる。経覚や古市胤栄にとって、京都での戦乱は対岸の火事だったのだろう。」(P149)と結んでいる。
第5章 衆徒・国民の苦闘
ここで、衆徒と国民を復習しておく。
「この永仁の南都闘乱において、一乗院・大乗院の双方の実働部隊として活躍したのが、衆徒(しゅうと)である。」(P9)。衆徒は大衆(寺僧集団)と同義であったが、武装する下位の僧侶を指すようになった。
「国民とは春日社白衣神人(びゃくえじにん)のことで、他国の「国人(こくじん)」(地元武士)と階層的には共通する」(P9)。
第5章は東軍に味方した衆徒・国民である筒井順永と風流の人である古市胤栄の西軍への参加と没落を描く。
第6章 大乱終結
どうも、細川氏と山名氏が戦乱の収めようとしないまま党首が引退してしまったことが、乱が長引いた原因のようである。そうこうしているうち、文明5年(1473年) 山名宗全、細川勝元が相次いでなくなり、経覚も亡くなってしまった。
あとは尋尊の日記を見ることになるが、呉座氏の尋尊の評価は決して低くはない。記録の質に注目しているのである。大乱の発生当時の参加諸大名の名前のみを列挙した記述から、守護代層キーマンにまで注目して情報分析している点があげられる(P192)。また、経覚の死後の借金問題を見越して尋尊の対応について「将来発生するであろう問題を予見し、事前に対策を練っておく尋尊の手腕は見事と言うほかない。大乱の傍観者と侮っていると、尋尊の本質を見失ってしまうだろう」(P204)。
かくて、京都の乱は終わったが、戦乱への元となった畠山義就は河内へ戻り、戦を続けていた。
関連情報
『応仁の乱』(2016)その3
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