管啓次郎『本は読めないものだから心配するな』左右社、2011年〔新装版〕
前に読んだときは、猿子眠の話に興味を持って書いた。
2014-08-28「旅する読書」
本書のテーマは「本は読めないものだから心配するな。あらゆる読書論の真実は、これにつきるじゃないだろうか」(P3)と最初に書いてある。だから、当たり前過ぎて目に止めなかったのかも知れない。
「すべての人間は根本的に無知であり、どの二人をとっても共有する知識よりは共有する無知のほうが比較を絶して大きいのだから。でもその無知に抵抗して、願わくは花粉を集める蜜蜂、巣をはる蜘蛛、ダムを作るビーバーのような勤勉さで、人は本を読む」(P3)。
管啓次郎氏は読書の実用論者だという。「未来において「何か」の役にたつと思うから、読むのだ」(P4)と書く。この実用論はそのまま素直に受け取れない。引っかかるとこの捻くれ読者は停滞する。
確かに、仕事のために専門書を読んだりするのは、窮乏の原因だし、苦痛かもしれない。だからと言って、全てが「何かの」役に立つことと、想定されているのだろうか。
私など、まだ、働くことを考えているので、仕事に関する雑誌購読、セミナー受講、推薦図書の購入を受け入れた生活を中心にしている。それでも、気晴らしに仕事に役に立つとは思えない本を読んだり(度が過ぎているが)、解けない詰将棋の本などめくったりしているのはこのblogを見れば瞭然である。本を読めば読むほど無知の領域が広がるだけである。読んでいる内容が検証できるのは自分の専門領域くらいであろう。真偽不明の文章に耐えるのが読書となっている。
「本に冊という単位はない。とりあえず、これを読書の原則の第一条とする。本は物質的に完結したふりをしているが、だまされるな。ぼくらが読みうるものはテクストだけであり、テクストとは一定の流れであり、流れからは泡が現れては消え、さまざまな夾雑物が沈んでゆく。本を読んで忘れるのはあたりまえなのだ」(P9)。
本というより、読書に冊という単位は向かない。何冊という本を同じように読むことはない。カバーツーカバーで読む本などほとんどない。必要なテクストを追っているだけである。自問自答しながら読み進めていくだけであり、著者の不用意な言葉遣いのために思考が中断することはよくある。
「読むことと書くことと生きることはひとつ。それが読書の実用論だ」(P10)。
そういう意味なら役に立つなど言う必要はなかった。本を読んでも何も残らなくてよいのだ。本が読めなくて嘆いてもよいのだ。「本は読めないものだから心配するな」(P10)。
このあと「猿子眠」の日々が続き、その記憶は以前書いた。これは宮本常一のエピソードであるとともに管啓次郎氏の体験でもある。
読んでいて思い出したのは、浮谷東次郎『がむしゃら1500キロ』(ちくま文庫、1990年)だった。15歳の少年がバイクで東京から大阪まで旅した紀行文だ。管啓次郎氏が書いてなければ、買わなかったかもしれない。この本で知った本を読むことになったのは、読めるテキストを管啓次郎氏が書いたせいかもしれない。
コメント