稲葉継陽『細川忠利 ポスト戦国時代の国づくり』吉川弘文館、2018年
日本近世社会における統治のあり方を史料に基づき丁寧に論じた書である。織田信長のもとで初陣した細川忠興の嫡男の細川忠利がポスト戦国時代に小倉藩から熊本藩で実践した統治の枠組を追うことで、領主が百姓とどう向き合ったのかを明らかにする。
元和7年(1621年)に36歳で家督相続したあと、惣奉行衆による藩政改革を行う。郡奉行と村庄屋の間に手永(てなが)という地域単位を置き管理責任者である惣庄屋を置いた。この統治の枠組が実施される過程を史料から読み取るのは臨場感があって面白かった。しかも、藩内には父忠興(三斎)の隠居領が治外法権のように点在する。三斎との対立を家臣の起請文などで裏付けているのだ。
読み進めるうちに、細川忠利が藤原惺窩による儒学の修養と高麗八条流馬術の奥義を得た文武両道の達人であるだけでなく、「私なき」統治者として、「公私の区別を明らかにし、百姓を私的・恣意的な支配にさらしてはならない」(P175)とする実践者であることが分かる。
著者の問題意識は江戸時代の「天下泰平」がいかに長期維持されたかにある。戦国の一揆の世に逆戻りさせないために、島原・天草一揆のあと、「百姓と武士が武器行使を長期にわたって自己規制した事実の背景に、日本近世社会における平和的価値の一貫した尊重と発展をこそ読み取るべきであろう」(P206)とする指摘は心に留めて置きたい。
三斎が存命中に忠利が急死し、跡を継いだ三尚が8年間の治世で急死する。「忠利のもとで確立したはずの「御国家」の危機に、家老衆,奉行衆の合議体制は、そして郡内各手永をユニットとして展開していた地域行政は、いかにして対応したのだろうか。十八世紀中葉の藩政改革まで、ちょうど100年。時代を画するこの大きな節目まで、ポスト戦国世代を起点とする「統治の歴史」は、いくつもの波乱を含みながら、まだまだ続くのである」(P233)。こんな風に終えられてしまうと、気になってしょうがない。
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