呉座勇一『応仁の乱』中公新書、2016年
第7章 乱後の室町幕府
足利義政は一貫して寺社本所領返還政策をとった。呉座氏は「寺社本所による所領回復の動きは結果的に将軍勢力の寺社本所領への進出を促すことが多い。義政の寺社本所領返還政策は慈善事業ではなく、むしろ守護勢力を抑圧し自身の利権を拡大するという一挙両得の将軍権力強化策だった」(P216)とする。
山城国一揆により、畠山義就と畠山政長を追い出す事件が起こる。呉座氏の『一揆の原理』(洋泉社、2012年)の登場である。2015年にちくま学芸文庫になったし、Kindle版もあるので、処分されやすくなった!? しかし、若者達は歴史書に詳しくないので、私の興味分野ということで、しばらくは安心だが、Kindle版が出て、紙で持つ必然も薄れたことから、処分候補となることは考えられる。外部倉庫に置いておくコストを考えると読み返したければ、Kindle版で読めばよいのだろう。だいたい、新書を買い続けているのだし、Kindle版にしてもそのうち定額サービスでも読めることになるだろうから。
話が、それたが、『一揆の原理』の関係部分を読み直してから、残りを読む。
足利義政と足利義尚及び日野富子の不和が解消されずに、足利義尚が逝去し、後継者に足利義視の子の義材がなる。
しかし、足利義材が南山城を攻めている最中に、明応の政変が起こり足利義高(義澄)が将軍となる。将軍がいながら別の将軍を擁立するというのは、応仁の乱の東幕府と西幕府の対立の模倣ともいえる。この明応の政変をもって戦国時代の始まりと考える論者もいる。
終章 応仁の乱が残したもの
呉座氏は4つに整理している。
(1)守護在京制の解体
(2)京都文化の地方伝播
(3)戦国大名と郷村
(4)生き残った興福寺
(1)と(2)は特に目新しくないので省略する。
(3)戦国大名と郷村について、本文を引用しておく。呉座氏は「大名が守護代以下に分国経営を委任し、その収益を京都で受け取るだけだった室町時代とは全く異なる社会が生まれた」(P270)という。「郷村・百姓と直接向き合った点に、前代の権力と異なる戦国大名の最大の特徴がある。そして、そのようにな社会の出発点が、応仁の乱であったのである」(P270)と結ぶ。
(4)生き残った興福寺では両将軍の争い、細川政元麾下の赤沢宗益・長経(ながつね)の大和国の強権的支配と尋尊の示寂、赤沢宗益父子の死で大和国が安定することが描かれる。松永秀久の大和入国は本書のテーマを超えるとした。
本書は次の言葉で締めくくられた。「今はただ、戦乱の時代をしたたかに乗り切った経覚と尋尊に敬意を表したい」(P278)。
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