三中信宏『読書とは何か 知を捕らえる15の技術』河出新書、2022年
書誌情報
『読む・打つ、書く』(東京大学出版会、2021年)の子孫本である(p.127、p.267)。編集者は高野麻結子氏である。目次も節まであり、文献リスト[各章和英別]、事項索引、人名索引[和英別]、書名索引[和英別]がある。
エピグラフに、「Lego, ergo sum (我読む。故に我有る)」とあり、洒落ているではないかと思った。しかし、いきなり、陶淵明の詩から「より深い「主張の読み解き」」を問われてしまった。
陶淵明「雑詩(其一)」
人生無根蔕、飄如陌上塵。
分散逐風轉、此巳非常身。
落地爲兄弟、何必骨肉親。
得歡當作樂、斗酒聚比鄰。
盛年不重來、一日難再晨。
及時當勉勵、歳月不待人。
ここで、以下の解釈を訊いてきた。
盛年不重來、一日難再晨。
及時當勉勵、歳月不待人。
「盛年は重ねて來らず、一日再晨なり難し」。
「時に及んで勉勵すべし、歳月人を待たず」。
普通に訓めばこうかなと思ったが、昔から「歳月人を待たず」は、寸陰を惜しめと結びついて教訓詩と受け取られていると思った。
残念ながら、三中信宏(みなか のぶひろ)氏のいう「単に上っ面だけの「文字の読み取り」と指摘されてしまった。まんまと罠に掛かってしまったというわけだ。
京都学派の青木正児(まさる)の『中華飲酒詩選』(筑摩書房、1961年、p.32)の解釈は反対の意味であった。
「若い盛りは二度と來ぬ 一日に二度の朝が有るわけはない。
時に後れず、せい出して遊ぶべきだ 歳月は人を待ってはくれぬ」。
この雑詩の流れは酒飲むべしだから、最後に教訓も、大いに遊べでなければならないというわけだ。
悔しいので林田愼之助訳注『陶淵明 全詩文集』(ちくま学芸文庫、2022年)を見てみたら、「「勉勵」は学問につとめはげめという解釈と、遊び楽しみにつとめはげめという解釈もある」(p.312)と日和見である。谷沢永一氏なら、紙つぶてをくらわすかもしれん。
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