三木紀人校注『新潮日本古典集成 方丈記 発心集』新潮社、1976年、1995年12刷
小西甚一校注『一言芳談』(ちくま学芸文庫、1998年)の臼井吉見の解説を読んでも、鴨長明の『無名抄』や『発心集』が出てこないので、私が触発された考えを確かめるために、まず、『一言芳談』と距離は近いと思われる『発心集』を読むことにした。
三木紀人(すみと)氏が『方丈記』をどのようにみているかからはじめて、『発心集』を扱うことにしよう。解説 長明小伝から引用する。
「校注者自身は、『方丈記』を、「都」あるいは「住ひ」という居住空間の相対性に触れつつ、王朝的文化ではぐくまれたのとは別の(実は王朝期にも底流としてあった)価値を見出して行き、さらにこれを超えるものを予感するまでの試行錯誤を綴った試論と見るものである。が、どのような主題を見るにせよ、『方丈記』がはらむ多様な読まれ方を配慮して、一義的に規定するのは避けたいと思っている」(p.413)。
三木紀人氏の言う「王朝的文化ではぐくまれたのとは別の価値」とは何であろうか。肝心の点がわからない。
「その意味で、『発心集』をまるごと長明の所産としてこれを論ずるには慎重さが必要だが、全体の基幹は明らかに彼のものだと、長明を知る者の眼に映るであろう。『鴨長明集』から『方丈記』『無名抄』までの諸作や、長明について伝えられる逸話などの背後から、したたかな存在感をもって浮び上がる一人の個性的な男の輪郭とほぼ等質のものが、この『発心集』越しにも見える。激情、妄執・狂気・恩愛,失踪・隠遁願望、死への関心と凝視、はるかなる超越的なものへの視線、等々、この説話集の中に出没する群像が示すものは、長明自身の一生を色濃く隈取っているものでもある。彼の生涯は、劇的な起伏を持ち、悲壮美をたたえた一つの作品のようである。同時代人にとっては多分に謎めかしい、それだけに気になる男であったと思われる。『方丈記』や『無名抄』は彼みずからが世に残した、自分自身への注釈と言って言えなくはない。この『発心集』も同様に考えられないであろうか」(p.471)。
『発心集』も『方丈記』の作者の文体であると思うが、どうしてそのように言えるかが少し曖昧だ。三木紀人氏が『発心集』も鴨長明自身であるということしか書いていない。結局、引用箇所は何も説明していなかった。
『一言芳談』は念仏者の法語であり、極めて簡潔なのに対し、『発心集』は出家者の説話集であるので、鴨長明の関心が色濃く出ている。以前読んだことがある話であるが、語りの上手さを感じた。『無名抄』も読みたくなった。

『方丈記・発心集』(1976)

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