『藤原摂関家の誕生』(2025)を読む

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瀧浪貞子『藤原摂関家の誕生 ー皇位継承と貴族社会』岩波新書、2025年

要約

本書は藤原摂関家の誕生の経緯を述べたものである。藤原北家の内麻呂、冬嗣、良房の事績により摂関家が誕生した経緯が辿られる。瀧浪貞子氏は桓武、平城、嵯峨の三帝に仕えた藤原内麻呂の手腕を高く評価している。

序章 伊予親王事件

伊予親王事件(大同2年(807)10月)から話が始まる。薬子の変(大同5年(810)9月)の3年前の平城天皇の治世のことである。背景に藤原四家の主導権争いがあると見る著者の叙述は冷静である。式家の種継の子の仲成、薬子が死ぬ薬子の変が注目されるが、伊予親王事件はよくしらなかったが、不審な事件である。伊予親王母子は謀反者として監禁され服毒自殺を遂げる。南家の雄友(おとも)が連座する。「伊予親王と空海」(pp.86-88)という節があり、伊予親王母子の追善供養の法会の話が載っていた。伊予親王は無実であったから、怨霊となったのである。

以下の5つの章に藤原内麻呂の登場しない章はない。藤原内麻呂中心に書いている。

第一章 桓武天皇の”遺言”
第二章 平城天皇の迷い
第三章 藤原内麻呂の手腕と苦悩
第四章 真夏と冬嗣
第五章 藤原北家の行く末

終章 藤原摂関家の誕生

興福寺はいつから藤原氏の氏寺となったのだろうか。「興福寺主要建物の発願者と造営(完成)年」(p.186)の図を見ると興福寺が官寺であることを疑うことはできない。中金堂(県犬養三千代721年)、東金堂(聖武726年)、五重塔(光明子730年)、藤原不比等追善の北円堂(元明・元正721年)、橘三千代追善の西金堂(光明子734年)は天皇家や関係者の発願者による。それに対して藤原北家の内麻呂の発願により、冬嗣により建てられた南円堂(813年)だけが例外である。「氏の統括者たる者が堂塔を開創するのにまさしく相応しい」(pp.186-187)一等地であると著者はいう。冬嗣の建立した南円堂が氏寺の端緒となったと見ている(p,189)。内麻呂供養の法華会を冬嗣が催行し始めた弘仁8年(817)を挙げているのである(p.190)。なお、興福寺の北円堂と南円堂については、注1を参照のこと

あとがき

著者には岩波新書で『桓武天皇』(2023)があるので、その続編に当たるのだろう。「とくに桓武が自身のルーツを天武天皇だと自覚して行動したことは、誰も思い至らなかったろう。その意味で従来とは異なった、新たな桓武天皇の実像が明確になったと感じている」(p.211)と自賛した後に、桓武天皇が「しかし、死の床で安殿(注2)に言い含めたこと、伝えたかったことにまで思いを巡らすことは、しなかった。しかし、いわば桓武のこの”遺言”まで含めて考察することによって、はじめて真の姿を見ることができるのではないか」(同上)と「本書によって、これまで曖昧にされてきた藤原摂関家誕生の経緯が解明できたと確信する」(pp.211-212)と結んでいる。

摂関家の歴史を読んでも現在に通じるものは少ない。政治家を動かす情念を歴史書から学ぶことにどれほどの意味があるのであろうか。本書で読んでいた中で、円仁の『入唐求法巡礼行記1』(東洋文庫、1970年)で活躍した藤原葛野麻呂が薬子と「姻媾(むつび)の中」となった(p.143)という記述が運命というものを考えさせたくらいだった。趣味の歴史本も棚卸の対象にして時間を確保することにしたい。

注1 興福寺南円堂と北円堂は普段は非公開である。その興福寺北円堂の仏像が東京国立博物館で特別展示されている。特別開扉の時しか見れなかったので、東京で見れるのは嬉しいが、混んでいるとのこと。

特別展「運慶 祈りの空間ーー興福寺北円堂」東京国立博物館 2025年9月9日(火)〜2025年11月30日(日)

興福寺南円堂の特別開扉 2025年10月17日(金)

注2 安殿(あて)親王は後の平城天皇

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