『徒然草』はどう読まれてきたのか。

読書時間

『徒然草』をエッセイ文学として読むとして、遁世の文学とみるのは、「無用者の系譜」の唐木順三であった。戦前の世代はそうなのかと思った。小松英雄は、日本語の歴史に即して言葉を解釈していた。これはある意味で執拗であって、先行する学者のいい加減な読みは、全否定されていた。小川剛生氏は兼好法師の創作性に注目して読んでいると思う。今の人はリアリティに関して敏感なのである。五味文彦氏は歴史家であるので、歴史資料として読むという。これには説明がいると思うが、書くと長くなるので今日はしない。気になる人は読まれればよかろうということにしておく。このブログでも何冊か読んできたのでちらっと読めばわかると思う。そのくらいの人しか想定していない独善的なブログである。付き合う人にも厳しいのは深沢七郎譲りである。

私の立場はどうなのだろうか。思えば、高校の古文で出会って以来半世紀も読んでいることになる。だいたい『徒然草』を読むのは春の桜の頃か秋も深まる頃になる。例の柑子の木が出てくる第十一段が思い出されてあやふやになった記憶を確認するためにkindle版をちらっと覗いてみるのである。栗栖野がどこであるのかという今ではどうでもよい地名を思い出したりしているのである。二箇所も候補があれば簡単に決定できるわけがない。徒然草が近世人や近代人にどう読まれてきたかは川平敏文氏の『徒然草 無常観を超えた魅力』(中公新書、2020年)に詳しく書いてあった。言説であるから、どう読まれてきたのかが大事なのである。五味文彦氏のように中世人の心情を持ち出すと話は俄かに難しくなる。読み方はその時その時で変わっていくか、あるいは記憶にこびりついた残骸のようになるのか、それはわからないとしか言いようもない。五味氏の中世人の読み方というのも仮説でしかないであろう。

五味文彦『増補 『徒然草』の歴史学』角川ソフィア文庫、2014年、kindle版

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