河内将芳『秀吉没後の豊臣と徳川 京都・東山大仏の変遷からたどる』淡交社、2023年
第2章 豊国臨時祭と大仏
豊国極楽門とは何か
秀吉が亡くなり、残された政権は大仏鎮守の豊国社を普請し、それがやがて豊国乃大明神という神号を得る。この豊国社に造られた門は豊国極楽門という。豊国極楽門は大坂城にあった「大坂極楽橋」を豊国社に移転させ、「二階門」に再造したものらしい。それが事実であれば、豊臣秀吉の大坂城を偲ぶ唯一の遺構ということができる。
今の豊国神社の唐門(国宝)が、伏見城の遺構で金地院の東照宮から明治になって移築されたものであることを岡田精司『京の社』(ちくま学芸文庫、2022年)を読んでメモしたことがある。それではその前はどうなっていたのかを調べねばならなかった。
『京の社』(2022)その3
https://handbook-of-four-cities.com/entry/2022/08/29/060014-5849
竹生島の宝厳寺唐門(国宝)は家康によって、豊国社の豊国極楽門を移築したものであった。西国三十三所巡礼で三十番札所竹生島宝厳寺を訪れたことがある。当時は国宝の唐門について知るところが少なかったので記憶に留めるほど見てこなかったのが残念である。2020年に修復工事が終わり、webでみると鮮やかな彩色が施されている。これは見に行かざるを得ない。
慶長四年四月の正遷宮によって成立した豊国社の祭禮は四月十八日と八月十八日におこなわれる「とよくにのまつり」である豊国祭である。例年の豊国祭のほかに、七回忌・十三回忌・十七回忌の年に臨時祭が行われたという(pp.115-117)。慶長九年のすなわち秀吉の七回忌の豊国臨時祭の模様を描いた「豊国祭礼図屏風」(重文)を豊国神社の宝物館まで見に行ったことは以前書いたと思う。そうなのだ。東山大仏に関して河内将芳氏の本や関係する書籍読んできたが、ここは主題が天下人家康が豊国社や大仏殿とどう関わっているかが論じられていて、家康指導で豊国臨時祭が行われたことを明らかにしている。
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